さよならを言う相手を一覧にしたものなーんだ

SNSが得意とするのはスピード。速報性。主観的なもの。「自分ごと」であると考えさせる力。ブラフ。はったり。軽薄さ=身軽さ。そういうタイプのツール。

……と、言ってしまうと、まるでポンコツで役に立たないと思ってしまうのだけれど、実際そのようなSNSが、私たちにとってかなり価値があるんだなと、みんなが気づいたのが震災だった。

なぜ震災だったのか。それは、「多くの人が」「波状攻撃的に」被害に遭うという特殊性によるものではなかったか。地震というのは一度来て終わりではなく余震がある。津波、停電、火災、治安悪化といった関連災害が時間をずらして次々にやってくる。交通や電波などのインフラの麻痺が狭い地域ごとに続々起こる。だからこそ、正確性には多少目をつぶってでも、「速報」をみんなが求めた。このとき、SNSの格が一段上がったように思えた。

一方で、感染症禍においては、SNSが各人のナラティブを拡散しまくったことが公益に寄与したかというと、わりと微妙だったのではないかと個人的には感じている。多くの人がうすうす感じてはいたけれど便利さの前に目をつぶっていた「速報の危険性」みたいなものが顕在化した。

「現場」で暮らす人々の主観それぞれが間違っていると言いたいわけではない。ひとりひとりの感じたものは、ひとつの真実だ。ただし、共有して何か意味があるものかというのはまた別の問題だ。


SNSで得ると役に立つ情報: 高速道路の渋滞。空港の混雑。細かい地域ごとの天気。今やっているスポーツ。読み終わったマンガ。見終わった映画: 速報性こそが大事であり、かつ、エッセイ・随筆的であっても情報としての意味が失われないもの。

これに対し、政治、経済、医療・健康にかんする情報は、早ければいいというものではない。理想を言えば「早くて正しい」ことが一番いいのだろうが、複雑系からの出力結果を「早く正確に出す」というのは、理論的に無理なのではないかと思う。

ヒロアカ最終巻の感動に「合ってる、間違ってる」はない。発売日にみんながSNSで盛り上がっている姿は、正解とか理想といったものとは別の次元の美しい形象だ。

それと同じで、「新型コロナワクチンを打ちたくない」という主観的な意見がSNSに流れることも、「合ってる、間違ってる」ではない。それは人の気持ちであり随意に執筆されてしかるべきものだ。それを引き受けるのがSNSであるというのは、私はアリだと思う。打ってほしいけれど、打ちたくないという考えが流れてくること自体は自然だ。


でも、SNSに、ジャーナリストを名乗る人間たちが、「【速報】をヘッドラインにした医療情報」を流してくるのはおかしいと私は思っていた。ずっと、「それは違う」と思っていた。速報を打っていい場面と、プロが手間をかけてきちんと裏を取ってから構造化された情報を出すべき場面とがあった。医療において【速報】を飯の種にするタイプの人間を、私は軽蔑した。そこの分別がないのかよ、とがっかりしたのだ。


今のタイムラインはアレンジがきつすぎて、いったんヒロアカについてポストすると「おすすめ」欄がヒロアカ以外なくなる。毎日そういう感じだ。おかげで、私が嫌っていた速報系医療ジャーナリストを目にする機会はない。今後もない。SNSで私はそういう情報を見ないようにしているから、もはや全く表示されない。汚れた洗濯物を押入れの中に放り込んで見ないようにしている。それができるのは私にとってはありがたいことだ。


押入れで思い出した。ドラえもんはなぜ、のび太の部屋の押入れで毎日寝ていたのだろう。なぜ、道具を使ってよい寝室を作ろうとしなかったのだろう。いくつか自説はあるのだが、急いで短文に仕立てあげて、速報気味に世に放り投げることに、さほど価値を感じない。急いで出すならダジャレだ。ダジャレこそはSNSにもっとも向いているコンテンツだ。速報というのはダジャレにこそ冠されるべき枕詞なのだ。