マツコはすごいですよね

ビールじゃなくても別にノンアルでいいのか、と思い立ってから1週間。いまやお湯でもいいのではないかと考えている。お湯ってけっこうすごいんだな。ビールや冷たいお茶とは別種の満足感、というかノドや胃に対する説得力がある。これを「白湯(さゆ)」という人たちは、なんとなく口が気持ちよくておしゃれ寄りの言葉をセレクトしているだけなんじゃねぇのかなと今でも思うし、「お湯」でいいだろうという感じだが、お湯、大したものだ。プラスチックのカップで飲むと味がうつった気になる、でも、お湯ごときのためにマグカップを出してくるのもなんだか大げさである。クラファンの返礼品みたいなマグカップが溜まってきており、これを開封すればもうちょっと楽しいお湯ライフが送れるかもしれない。



「マツコの知らない世界」をよく見る。すごいと思う。食べ物回、マツコはいつも、なにかしらの経験をきちんと話す。体からにじむような経験なので体験と呼ぶほうがいいだろう。ドヤ顔をするでもなく、うんちくをひけらかすでもなく、豪華な料理や高級料理に限らず、雑誌やテレビではあまり紹介しない生活臭の強い食べ物、冷凍食品であるとかフライパンを洗うのが簡単なタイプの料理であるとか、そういったものを、見事に体験してそれを自分の言葉で世に出している。「食べること」との距離感がじつに上手だなと感じるし、「食べること」への言葉の当て方が見事だなと思う。

食体験の質はもちろんだが一番驚かされるのはその物量だ。芸能人だからいいものをたくさん食べているのだろうとか、ロケでいろんなところを訪れているのだろうといった、通り一遍の「下駄の履かされ方」を、マツコ・デラックスはしていないはずである。働き方的にロケはあまり多くないし、自宅が好きで食事もたいてい自宅でとっているという。TV局と自宅と自宅近くのコンビニ以外にさほど寄る場所もない、つまり、生活のパターンとしては「私と似ている(※TV局を職場にすればよい)」。なんなら、出張している分私のほうがもう少しいろいろ経験していてもおかしくない。だから、余計にびっくりしてしまう。広告代理店の営業職の人間がたくさんの食べ物を知っているというのとはニュアンスが違うように思う。環境の限定をものともせずに積み立てられた物量にそのまま驚愕させられる。クイズ王や金田一秀穂やみうらじゅんを見て「なんでそんなこと知ってんだろう」と思うときの、圧倒的な収集量に対する敬意と似た畏怖を、マツコを見ているといつも感じる。

体験を言葉にすることの偉大さを思う。収集し続けているだけではあの表現力、説得力には達しない。生来のうまさというのもあるだろうが、どこか、執念の差のようなものも感じるし、それに加えて心がけ・姿勢、「言語化をぎりぎり越えるような経験を体で拾いに行くひと手間を惜しまない」みたいな部分がかなり効いているのかもなと思う。マツコ・デラックスは経験を体に引き付けることを大多数の人よりもかなりしっかりとやりこんでいる。



私が食べ物にそこまで興味が持てるかというと、それほどではない。ただマツコ・デラックスが始終食べ物のことばかり考えているわけではないのだから、彼我の差はおそらく、「没入できるタイプかどうか」の部分ではないのだと思う。贅沢品、旅行、推し、人間関係、私はこれらのものを「そこまでハマれない」と公言してきたが、マツコ・デラックスだってこれらに特段ものすごくハマっているとは思えない、でも経験を体験にする手さばきが私より圧倒的に真摯だから、どんなものに対するコメントにも血が通っているのだと思う。たまに私は知人などから、「もうちょっと趣味とか楽しめることを探したほうがいいよ」と言われたりもして、たしかにな、もっとハマれるものを探したほうがいいかもな、などと、今にして思えば、角度のおかしな納得をしていたのかもしれない。私は、自分が興味を持てようが持てなかろうが、そういうこととは関係なく、もっと経験を体に取り込んでいくためのにじりよりを、何に対しても行っていくべきなのではないか。私は自分がお湯を飲んで感じたことを、もう少し体や、過去、曼荼羅、そういったものと照らし合わせてみずからの体験として語れるだけの言葉をはぐくむべきなのではないのか。