かたにはまるのがこわい

坂井建雄なる東京大学解剖学のお偉い方が30年くらい前に書いた本が講談社の青紫のアレで復活した。『解剖学の歴史』という本である。いまさら解剖学もあるまいと思いつつ、こういう本を読むメインターゲットが令和の世のどこにいるかと考えると、それはもちろん私だろうと、勇んで購入して一気に読み切った。知ってあることばかりが書いてある。すでに一般化している。ゾルトラークである。しかし、ならばつまらない読書だったかというと、そうでもなくて、なんか、おもしろかった。この教科書的なわかりづらさを引き受けて書く感じがまさに学者のそれだなと思ったりした。




”解剖学者の養老孟司は、『形を読む――生物の形態をめぐって』(一九八六)という本のなかで、われわれが生物形態のなかに意味をみいだすさいに、四つの視点のどれかをとるということを論じている。①数学的・機械的な観点、②機能的な観点、③発生的な観点、④進化的な観点である。形態の見方は、これら四つしかない、というのが彼の主張である。(172ページ)”




なかで、みいだす、さいに、といった漢字の開き方の、法則がわかるようでわからない。おそらく字面の形態によって判断しているのだろう。そういうところはまさに解剖学者だなあと感じる。ともあれ、養老孟司か、まあそうだな、30年前に養老孟司を引用しているわけだからやはり正しい解剖学の流れだな。生物形態のなかに意味をみいだすさいに、四つの視点のどれかをとるという。その四つしかないのだという。引用外に、坂井は、この四分類、もしくは別の学者がとなえた三分類法に完全に同意しており、つまりこれら以外の「形態のみかた」はないと念を押す。


①数学的な視点、というのは、「眼鏡橋はなぜあの形態に落ち着いたのか」みたいな話だ。物理的に圧が加わるところを硬くしていくと橋の形というのはだいたい似たところに落ち着く、みたいなことが、人体においてもあてはまる。坂井は大腿骨の骨頭付近の緻密骨の骨梁が、圧の加わる向きに並んでいることを、①の例として示している。


②機能的な視点、というのはわりとわかりやすくて、胃には胃酸を分泌する細胞とペプシン(の前駆体)を分泌する細胞がいるとか、小腸には吸収上皮があるといった、「その場に求められている機能に応じて細胞が配列する」みたいな感覚でよいと思う。あるいは手の筋肉同士がなぜ癒合するのかとかどうやって拮抗体制をとっているかといった記述をする際も、①だけでなく②を用いたほうが語彙が豊かになるだろう。


③発生的な視点、というのは一部の病理医がかなり気にしている。発生の過程で中腎管が存在してそれが腎臓やら生殖器の一部やらに変化していくわけだが、中腎管がもとあったところにはその遺残が認められることが多い、みたいな話だ。成人の人体解剖をいくらやっても理解することができないので、病理医はキャリアの途中で必ず発生学を本腰入れて勉強することになる。神経堤由来の細胞がどうとか、内胚葉由来の細胞がどうとかいった話を、学生はなにやらむずかしいことを言っているなあとスルーして先に進んでいくもので、病理医のタマゴはたいてい、かつての自分のサボりを後悔することになる。


④進化的な視点、というのを、たとえばヒトという存在が魚類よりも高等で、複雑な臓器を持っていてうんぬん、みたいに雑に解釈すると、八方から殴られるので気をつけたほうがいいと思うけれども、要はこれはいわゆる比較解剖学(ほかの種と解剖学的な比較を行うタイプの、東大がむかしから大事にしてきた学問)を支える考え方だなと思う。種を越えて保存されている・反復されている形態にはやはりそれなりの合目的性があるし、一部の種にしか発現していない形態にはその種に特化した特殊な「いわれ」があるだろう。




この四分類以外のみかたが本当にないのかというと、おそらくそんなこともなくて、ただ、第五の視点を具体的にみつけようと思うと難しい。化学波みたいな液状成分の濃度勾配を考えるのは①に含まれるだろう。臓器の一部は左右に一対ずつあり、一部は中心あたりに一つしかないのはなぜか、という視点もたいていは①と②、ときに③と④を駆使することで発散していく。「傾奇(かぶき)」的にむりやり⑤を想定するとしたらそれは病理的な視点……になるかと思う。健康と病気との違いを形態学的に考え、なぜこちらの(異常な)形態だと健康が保てないのか、というみかたを加えるわけだ。でもそれって結局②(機能的な視点)の裏返しじゃないの、とつっこまれてしまうだろうが、ここでひとつ大事なこと、というか私自身のポリシーみたいなものがある。病気における形態というのがイコール完全に破綻しているというわけでは必ずしもないと思うのだ。病気というのは、健康な状態と比べると脆弱かもしれないが、ある種の、別種の安定が存在している。病気には病気なりのホメオスタシスが存在する。「健康な人体に比べるとややフラジャイルだけれども安定する別個の形態」というのは想定可能だろう。それを通常の・本来の・健全な(?)・形態と対比していく(個人的にはこれを比較とは呼びたくない)。この⑤病理的な視点、は、坂井や養老があまり指摘してこなかったものではないかと思う。まあ厳密に突き詰めていくと結局は①~④に吸収されるのかもしれないなあとも思うし、病理医の形態解析のやりかたはやはり解剖学者のそれとはちょっと違うのかもなあとふさぎこんだりもするが、でも、病理学的な解析を行う際に、それが①~④に「分類されきっている」かと思うと、そっちのほうがはるかにさみしい話だろう。分類というのは定めた瞬間にそこから何かが飛び出してくるものでなければならない。