福田和也の本を読んでたら小林秀雄の『考えるヒント』が引用されていて、読んだことないなあと思ってKindleを探しに行く。福田和也が引用していたのは『考えるヒント・3』であり、なるほど1と2もあるのかと思ったらどうやら4まであるようだ。1冊ずつは売っていなくて古本がちょっと高くなっている。でもちょっと探すと、1から4までが合本になったKindle版というのがあるのでそれを購入。
買って1から読み始める。日本語で書かれているのだが、日本語がなんかうまく入ってこない。これくらいの古典だと私はしんどいんだなあと思って、ちょっとがっくりする。しかし、全くわからないわけでもないから、あきらめるでもなく読み進めていく。この塩梅ならぎりぎりなんとかついていける、と思った次の段落はぜんぜん入ってこねぇな、みたいなリズムである。半分くらいは脱落した状態、でもときどきぐっと入り込んでちょっとわかった気になる、錯覚半分、幻想半分。読書ってそもそもこれくらいでいいのかな、ぜんぶがぜんぶスッススッとごくごく飲み込むような読書ばっかりでもつまんねぇもんな、いや待て、んなわけあるか、わかったほうがいいじゃねぇか、などと、卑屈半分、開き直り1/4、誤差1/8、含羞1/16、行きつ戻りつ、ときどき居眠りつ。どうにも登山の趣がある。
昭和三十年代に文藝春秋に連載されていた文章だ。かの有名な小林秀雄だ。口語調の散文形式で書かれているから読んで読めないことはないはずだ。でも言葉がうわすべりして、なかなかまとまった意図が飛び込んでこない。うーん。そこまで難しい単語を使っているというわけじゃないんだけどなあ。難儀しているうち、わりと序盤のほうに、本居宣長のことばを引いて、「姿(言葉)は似せ難く、意は似せやすし」と言っている部分があってひっくりかえってしまった。
逆じゃねぇのかよ。意すらわかんねぇのに、言葉はもっと難しいってか。
なるほど。そういうこともあるのかなあ。いやほんとかよ。これ、わかった気になっていいのかよ。
小林秀雄が言葉ひとつひとつに込めたニュアンスをおそらく私はけっこう取りこぼしてしまっている。通り一遍の意味にあてはまらない論理の波に乗ることができない。ざんぶざんぶと頭まで水をかぶっていく。
世の中にある複雑な現象あれこれを、自分の口に合うものだけ選んでプレートによそって食していくのにだいぶ慣れた。あえてわからない味を皿に盛らない。別に名物だからと言って食わなければいけないわけでもない。前の日に飲み過ぎたらそもそもコーヒーしか飲まない。和食の気分だったらベーコンを食わない。出張明けの旅の朝の、ビジネスホテルの乾燥したバイキングの、二周目のないピックアップの結果としての合格点ライン40点程度の朝食の。うまいものだけ食って何が悪い、の。気になったものだけ食って何が悪い、の。
SNSに対しても、アマプラにしてもネトフリにしても、YouTubeにしてもなんにつけても、そうなっている、そうなった、そう流れ去ってよどんだところの私である。
貪欲に文字を何度も口の中で噛んでふくめるような、独唱にも似た読書というものを、やれるだけの精神的な体力を失った。そもそもそういう体幹をささえるための筋肉をこれまでの人生の中でろくに鍛えてこなかった。小林秀雄が読めないのかあ。いや、これは、十分に読んでいて、ただし読書というのは、こんなふうに一度さっと目を通してわかったわからないで終わるものでもないので、まだ、読み終えていないのだ、読み始めてもいないのだ。たぶんそういうことなのだろう。スローライフとかくそくらえだと思っていたけれど、ステディな読書というものにもう少し、私は気を向けてみてもよいのかもしれない。わかりやすい本なんて読んだ先から忘れてしまうだろう。悔しくて忘れないくらいの読書のほうが、どれだけ覚えていられることか。覚えていればいいなんて全く思わないけれど。