はるかなる有給休暇の過去にある私の残像がうすれて消えて、今の私は廉価版の機体に乗り換えたような気分でふわふわゴツゴツと革靴を鳴らしている。仕事用のiPhoneをひさびさに起動すると無限の着信履歴がアットランダムにポケットの中で震えた。日が変わってからずっとメールに返事している。長く不在にしたお詫びの文章、メール冒頭の定型文を、ひとりひとり違うものにするのは、ひそかなこだわりである。コピペしても先方にはばれない、しかし、これらのお詫びはいずれも私の物語の一行なのだから、できればそれぞれ新たに紡いでおきたい。昔の漫画家が演出上の理由でコマをコピーして貼ってを繰り返したあとに枠外で「編集長、このページの原稿料いらないです、ほんとに」みたいなことを言うありふれたネタを、私の精神を和綴じした本の中で再現する気はないのである。
魚釣りにも行けたらよかったのに、と突然思う。キャンプだってしてもよかった。温泉だってよかった。しかし、そのいずれもなさないまま私の休みは終わった。満足している。体力欄は黄色くなった。しかし魔力は全回復した。
息子はよく成長した。もう安心だなという気分が強い。人間というものは常に自分以外のさまざまなものに目配りをするのに忙しく、たとえ独身であろうと、天涯孤独であろうと、自分の都合だけで生きていくことは極めてむずかしいし、まして人の中で暮せば、人を相手に仕事をしたり人を相手に生活をしたりしているならば、私のためだけになにかをするなどということはありえないのだけれど、それを悲しいとかつらいとか、もったいないとか損だとか、思わずにここまで暮らしてこられたのは私の場合、ひとえに世界のどこかに息子がいたからである。その息子が「あとはお前の物語だからな」とばかりにうまいこと育ってくれた今、さあ、私はもうなににも言い訳できなくなって、自分のために時間を使うことができる、そのほうが大変だよなァという、微笑みのようなものに浸りながら私は私の時間に目を向ける。
書類を書く、書類を書く、手で書く、のを見ている。私の瞬間的な主治医が私の健康診断の結果を手で書いていくのを眺めている。肝機能がちょっと悪い。2月に異常を指摘されてから酒を控えてγ-GTPはぐっとよくなったのだが、ASTとALTが下げ止まらない。どこかで一度、しっかり内科にかかったほうがいいのかもしれない。しばらく付き合っていくものだろうなと思う。私の瞬間的な主治医は指定の様式のいちばん最後に、「軽度の異常値を認めるが、就労には問題がない。」と書いた。これを持って私は次の職場に向かう。ただしこれだけではない。ムンプスの抗体価が下がっていたのでワクチンの追加接種をする必要がある。麻疹の抗体価も中等度まで下がっていたからこちらも1回は追加で打っておいたほうがいいだろう。風疹、VZVの抗体価は大丈夫だった。HBs抗体もしっかり高値であった。さまざまな数のワクチンと、罹患済みのかつての感染症の名残によって、私の体の中にはたくさんの抗体ができており、それらはまた年月とともに少しずつ消尽していて、次の職場に勤める機会に私はこれらをちゃんと補充しておくように命ぜられる。書類を書く、書類を書く、ペンだこというのもまた抗体のようなものだ。擦れる場所にはそれだけの備えが生まれる。
休み明け、1日だけ勤務して、また明日から連続出張の日々。私の居場所はもうここにはない。しかし私の居場所は最初から人の間である。こんなにいらないキーホルダーばかりUFOキャッチャーで取ってなにが楽しいのか、レイトショーの翌日の寝ぼけたまなこをこすりながら交互に笑う。本当に必要なものなど何もないが、要らないものと要らないものの間に浮かび上がってくる場所の温度を心地いいと感じ、笑い、休み、働く。