新しいトランクを買ったのでむやみに出張に行きたくなっています。うそです。むやみに出張ばかりしているから新しいトランクが必要だったんだ。そういえばトランクって言うよりスーツケースって言ったほうが一般的なのかな? でも私は、なんとなくだけど、中年男性がスーツに身を固めて引きずって移動するのはトランクであってほしい。トランクという言葉の響きが好ましい。ジャケットは少し薄めの茶色がよくて、頭にはハットが乗っているとなおいい。このイメージは、なんなんだろうな。ドリトル先生でもないし。あしながおじさんでもないし、菊次郎の夏でもないし。なんとなく、そういう印象、私の中に居場所を占めるなんらかの情景、これは私の幼少期から夢や現実の妄想の中で、大根おろしをおろすように繰り返し、心の表面から内奥に向かって擦って擦って練り込まれたもの、刻印というには丸いし、彫琢というにもやわらかい、なんなんだろう、「青写真」という言葉がここでふっと浮かんでくる。それは小学生の頃、父親が買ってくれた『大図典 VIEW』の、五十音にのっとった項目の最初のほうにあったあのページ。今はもう青写真なんていう概念自体がよくわからないものになっていて、言葉としてもほぼ使われることもないのだけれど、たしか私の小学生のころには、子ども向け雑誌のふろくに「青写真セット」みたいなものがたしかにあって、シアノな色彩が脳裏にぼんやりと浮かんだままこちらを向いている。私の中の「トランク」という言葉は、わかりやすくセピアなイメージでもあるけれど、その心の中への投影のされ具合はどちらかというと、青写真のそれに近いのだなと思った。40年以上も前の、弱い日差しによって薄くもはっきりと感光された、私の中の、印象の話。こだわりとも違う、風習とも違う、好き嫌いとも違う、エネルギーがふんわりと、プラトーの中のカルデラにはまり込んで動かなくなっているような、そこは安住とまでは言わないのだけれど、腰掛けたまま、昼下がりの熱にうかされて立ち上がれなくなっているときの、現の縁辺で魂が散逸していく中でそれでも私が私として貼られているために必要な画鋲のようなものの。画鋲。気になるのは、針ではなく、柄。柄の、妙な尖り、押し込んだ親指を三日月の形に圧迫して痕を残す、壁からの圧のすべてを針が引き受けるのではなしに、私の親指にもある程度の責任と後悔をなすりつけてくる、画鋲の柄の矜持。工芸用鋸の刃の湾曲した返しの煌めき。担任の親指の爪を剥いだ断裁機のゆがんだストッパーの尖り。そこに、存在価値があるわけでもないのに、使用者の心になにかを勝手に残してゆくものたち、と、違って、私の買ったトランクには必要な機能しかついていない。それはとてもつまらないことだなと思って私はこれからトランクのフロントポッケに差し込むためのやや持ち手の尖った日傘を買いに行く。こうもり傘だとなお良いのだろう。でも私はそうなるべきではないのだ。私は常用の色彩の中で世界に埋もれるべきであって、あの青写真の中の中年男性のような、印象だけを残して去っていく空想の人間にいつまでもあこがれている場合ではない。