「それしかできないだけ」のことを、「私の強みです」と胸を張っていくことは、自己肯定感的にはよいのかもしれないが、良心がいたむ。なんの話かというと私が学会や研究会でしゃべりすぎだということだ。病理診断に関するコメントを求められるとブワッと言葉を詰め込んでしまう。そんなにいっぱいしゃべらなくてもいいのに、しゃべってしゃべってセッションの時間がおしてしまう。これはもうある種の病気みたいだ。適切な治療がなければ、勝手に治るようなものでもないし、放置しておくとだんだん体力を消耗し、身体の減価償却、摩耗、消尽。この病の治療法とは、自分を客観視して「ほどほどにする」、この一点しかない。そしてなかなかこれをやれない。困ったものだ。おまけに私は開き直る。私はときに、「時間ぎりぎりまで病理の話をしてしまってすみません、しかし、私はここに揃った医療人のみなみなさまに、無数に言葉を投げつけて、どれがどなたに刺さるかまではわかりませんが、おそらくどれかはどなたかには刺さるだろうという思いでおります。つまりこれは学問のひとつのかたち、『ものづくし』ならぬ『ことばづくし』によって疾病・病態をつまびらかにせんとする戦略なのでして、誠に申し訳ございませんがご列席のみなみなさまにおかれましては……」みたいなことを平気で言う。これがつまり、「それしかできないだけ」のことにすぎないのに、「私の強みです/方針です/計算の結果です」みたいな顔をしてシレッとしているということだ。始末に悪い。
私はいつも反省し諧謔している。そのくせぜんぜん改善まではたどり着かないのだから、口ばっかりと言われる。その口ばっかりすらも戦略なのだと公言している。どうしようもない人間だなと感じる。それが病理学ニッチにすっぽりフィットするものだという確信までしている。悪人だなとすら感じる。
自らの悪・性を評価して分類し、名前を付けて共有し、視線を誘導して、複数人の関わる場所で羅針盤となる。
またSNSで芸能人が炎上した。嘘をライフハックと呼ぶ人たち。推し活という名刺を乱発して恍惚とする商売人。SNSの功罪の、罪の部分をとうとうと語りながら、公認バッジから小遣いをせしめ続ける、まるで野生動物に餌付けする人間のような未必の故意。自らの良・性を評価しようと思っても私はそれが何によって定義されるのか見当がつかない。生理学よりも病理学のほうが簡単なのかなと思う。悪ければ目立ち、悪ければ思考のフックになり、悪ければ良いものが見えてくる。それを自分の「強み」だなどと言い切ることに、猛烈な羞恥心があり、しかし、それなのに、隠そうともしない、私は露出狂なのかなとも感じる。