チャリンコにでも乗れたらそれでいいのだ

戸棚の中で未開封のまま、賞味期限が2024年11月、という生茶を寝る前に冷蔵庫で冷やして今朝になって飲んだのだが、これはまだ「生」茶であると言えるのだろうか。生というのが無加工というのを意味するのならば、期限をはるかに越えるほど自然に熟成されたお茶というのはある種の加工を経ているとみなして「生」ではないと考えたほうが妥当なのではないだろうか。そんなことを思い煩っていたのが、3日ほど前のことだ。結果的に腹はくださなかった。よかった。くだしていたらここには書かなかっただろう。大丈夫なもんだなー。このような、逆民間療法みたいなことをしていては、健康はおぼつかない。しかし、まあ、民間療法が効かないのとおなじように、逆民間療法もさほど体に悪影響はないことがほとんどだ。これで自らの心が癒やされたり救われたりちょっと余所見するのを手助けしてもらえたりするのならば、それでいい。


いややめといたほうがいいよ。期限は守ろう。言われるまでもないか。みんなバカでもないしこれ見よがし勢でもないから、言わなくてもわかる。インプレッションを稼げない場所でおかしななことを言う人は少なくなった。受け手もわかって騒いでいる。私達は、騒がしい場所に根を張って養分を得ようとするタイプの植物ではない。


人の注目を多く集めた人が小遣い程度の金を手にするというのは冷静に考えるとすばらしいシステムだ。ほんらいアンコントローラブルなはずの外部の複雑系の足並みを自らに向けて揃えることができるなんていうのは、社会的生命体のタスクとしては最上級に評価されてしかるべきだし、そこに瞬間的な快楽を発生させることに、十分に合理性が、ない。


SNSのない世の中もAIがない世の中も、サブスクがない世の中も転売がない世の中も、今後訪れることはない。規制もいたちごっこ。それらがなかったときに世に満ちていた不満の一部は確実に解消されており、新たな不満については人類が熟考して対処してきた道のりがまだ短いため未解決のままであるけれど、それらをいちいちやりだまにあげて、昔のほうがよかったとか言っていてもしょうがない。ただ、SNSやAIのせいで「かつてないほどに歪んでいる」部分があるのだとしたら、そこにはかつてとは違うやりかたでの逃げ道が必要なことはおそらく本当だ。それはたとえばラジオのような、「情報の入力にかかる時間を自分ではコントロールできず、発信者の裁量にまかせるしかないが、適宜やってくる情報を『ながら』で適当にやりすごせるタイプのコンテンツ」であるとか、あるいは書籍のような、「情報の入力にかかる時間を自分でいくらでもコントロールできるし、なんなら物語の時間経過すらも受信者が好きなようにコントロールできるタイプのコンテンツ」のように、SNSとは情報の伝達速度やそのコントロール性などが少しずつ異なるものによって担われればよいようにと思う。ただ、だからといって、SNS時代は本を読めとか言いたいわけではぜんぜんない。なんでもいいのだ。なにもなくてもいいとすら思う。SNS以外で世界に接することなく、SNSでもうすらぼんやりとしか世界に接していない人間の、肌や目がコンテンツとして完成されていない見えない必然の微弱な振動を受け止めたとして、それがたとえば私のような多動で依存先の多い人間が四方八方のコンテンツからのべつまくなし受信する振動とくらべて、おびえるほどに微弱であるなどということが、あるだろうか? ないに決まっている。刻一刻とうつりかわる西の空の夕焼けの色調変化からも人はなにかを得ようとする。それは隕石のきらめきによる深夜の一瞬の青空ほど映えはしない、でもそんなことは私達の心のざわめきに対して、なんの優劣も主張してはこないのである。