山鹿で

大牟田から山鹿へのタクシーは事前にいただいていたチケットを使う。楽天のチケットが使えるタクシーと使えないタクシーがあると思います、と言われ、ホテルのフロントでたずねてみるが、タクシー会社におたずねください、フロントの横にあるその受話器を持ち上げると自動的にタクシー会社につながります、とのことでまあそのほうが私もシンプルでわかりやすい。最近あまり見なくなった、この、タクシー会社直通電話、持ち上げるとランプがついたり消えたりするので接続が不安定なのかなと少し気になる。けどこれ有線のはずだよな。

つながったタクシー会社の担当にタクシーチケットの話をたずねると、「受話器を手で押さえて後ろにいる別のスタッフに大声で聞いている様子」がありありとわかった。まあ映像を見ているわけではないのだが間違いなくそういうシーンなのだろう。今こうして書いていて思ったけれど、「受話器」という言葉、10代にはなじみがあまりないのだろうか、それともバイト先などでまだ目にするから大丈夫なのだろうか、少し気にはなる、が、10代と我々との交流を前提として文章を整備するなんてことは大事なものリストの上位30位にも入ってこない(3時間特番ならランキング外だ)。40代、50代、60代、70代、80代、90代、100代くらいの方々がなんとかわかってくれる文章を書くことが私のやるべきことだろう。まあ……100代の人の前でワクチンが2倍になったらワクワクチンチンとか言う気はないのだが……。

大牟田の地元のタクシー会社でぶじチケットが使えるという。呼ぶと10分くらいで一台やってきた。トランクを開けてもらい、スーツケースを入れて、後部座席に乗り込む。窓がうっすらと空いている。なるほどそうなのかと気付いた、はたして、タクシーの冷房が劇的に弱くてあまり冷えてこない。外はすでに32, 3度といったところでちょっとハラハラする道行きがスタートした。幸い運転手は道中なにもしゃべろうとしない。お客さんどこから? どこまで? のトークがあると今回はめんどうだなと思っていたので助かる。大牟田からちょっと走るとあっという間に山の中に突入する。昨日も思ったが山の木々の立ち方が北海道とは違うなというのを、九州で車に乗るといつも思う。山肌の木々の先端が尖っており手のひらで撫でると痛気持ちいい感じなのである(撫でられない)。一方、北海道の木々はもうちょっとモフ感が強い。外からはぬるい空気が伝わってくる。ただ木々の間を走り抜けているためなのか、そこまで猛烈な酷暑の中を我慢して走っているという風情でもなかった。助かった。

木々を眺めつつ、インスタのストーリーズに動画上げるのってどうするんだろうな、そうかこの写真撮影のマルボタンを長押しするだけでいいのか、でも今のこの風景を載せようと思っても4Gすらたまに圏外になるし別にこの画角だときれいでもないな、みたいなことを考えているうちに山鹿の市内に入る。人口50000人に満たない山あいの里で、温泉もあるらしいのだが滞在はせいぜい2時間半といったところで、残念ながら今回は町歩きもできない。まあ普段から町歩きなんてしないんだけど。山鹿中央病院にタクシーを付けてもらって降りると熱波がやってきて、車からスーツケースを降ろすだけで全身に熱がまとわりついてくるように感じる。土曜日の午前中。駐車場に思ったより車があるなと思いながら病院のロビーに入ると待ち合いに人がみっしりと座っている。そうか、ここは土曜の午前も診療する病院なのだと理解する。時間は11時になろうというところだ。前日の夜、私は朝はやく起きるのは苦痛じゃないので、集合時間をもう少し早くしてもいいですよと伝えても、「いやあ、11時で大丈夫ですよ。我々もそれまで働いていますから」などと言われていたのはそういう意味だったのかとようやく理解する。土曜日は休みという習慣にいつのまにか心のそこまで浸りきっていた。

ロビーでK先生にショートメッセージを送る。数分待っているとスクラブ姿のK先生が迎えに来てくださった。さっそく小さな会議室に移動する。PCを接続できるモニタ、顕微鏡を接続してあるモニタ、大量のプレパラート、内視鏡写真のメモなどが所狭しと置いてあるテーブルの周りに椅子が4脚。K先生とその部下というか弟子の若手2名と私、4名で椅子を占拠して、さっそく今回の九州行のメインイベントである「症例の照らし合わせ」をはじめる。

K先生が内視鏡写真をパワーポイントの写真にまとめてある。それをみんなで手短に見る。白色光観察、NBI拡大、インジゴカルミン・クリスタルバイオレット散布観察の写真の要点だけをK先生がさっと解説して、私はそれを見ながらすぐにプレパラートを顕微鏡に載せる。1枚のプレパラートには1病変だけが乗っているというわけではなく、同じ患者の複数のポリープやら粘膜やらが乗っていて、番号が付けられている。間違えないようにK先生に尋ねる。◯◯-◯◯◯◯、誰々さんの、①ですか、②ですか。えーとこれは③ですね。なるほど③。ではこの切片ですね。

K先生の疑問点は非常に細かい。病変の診断とかはもはや滞りなく終了している。そういうことではなく、とても狭い範囲の、多くの人が読み流してしまうような複雑な所見を、共通言語に翻訳しつつ、言語化がむずかしい部分については雑に言葉に置換することなく「描写的に」語って、ここが気に食わないんだ、と感想を述べてくる。それを受けて私は、病変がそのように観察されている様子と、実際にその病変の内部にどのような細胞がどうやって配列しているのかを、まずは自分の目元で、レンズの向こうの細胞と内視鏡画像を対比して考え、次にそれを内視鏡医たちにどの順番でどう強調して語るかのバランスを考えてから、画像を全員に提示する。

この病変はそもそも腫瘍と診断するのがとても難しいわけですが、細胞的にはこの部分のこの所見をもって腫瘍と診断できます。ただし普通の腫瘍と比べると、陰窩の間の変化がやや強く、増殖帯の位置が通常とはやや異なり粘膜内で少しだけ深い部分にあり、したがって陰窩の密度が一番高くなる部分も、いつものような粘膜の最表層というわけではなく、もうちょっと低い部分でこう、ぎっしりと詰まっていて、これはあれですね、満員電車で全員がダウンジャケットを着ていると、頭どうしは互いに離れていて余裕があるのだけれど、肩周りのところはどうにも身動きとれないくらいにギッチギチになっている、というような……。

それを受けたK先生がまた質問をする。内視鏡でこことここは微妙に違って見えるのですが、これらの領域に細胞の違いはありますか。

私も応える。細胞はじつは違わないのですが、細胞間の間質の浮腫の程度が違っていますね。

このやりとりを延々と繰り返す。今回、K先生が私を九州まで連れてきてくださった一番の理由が、この「対比」であり、症例は18例ほどある。問題はこの、症例の量と質にある。

15時から熊本市(車で1時間くらい)で別の研究会・講演会が待っているので、ここを13時半には出たい、となると11時からはじめた検討はせいぜい2時間くらいしか続けられない。120分だ。1例の検討を5分で終わらせたとしても24例。私たちは日頃、症例検討のとき、興味深い1例の検討に最低でも20分、多いときは90分くらいかけているのだ。それを5分に縮めても24例が限度。そしてK先生の用意した症例は、どれも激烈にひねってあって細かな疑問や興味が尽きない。5分なんてもったいない症例だ。どうしたって時間が伸びそうになる。それをぐっと我慢して……というか、思考と会話のスピードを倍くらいにすることでむりやり5分超におさめる。2時間ノンストップで対比を行って検討は13時ぴったりに終了した。

医局に案内される。ゆめタウンで買ってくださっていたサンドイッチのセットをいそいで頬張る。先生方はそれぞれがご自身の車1台ずつに乗るという。私はそのうち、年の近いドクターの1台に相乗りさせてもらう。わナンバーのヤリスだ。レンタカーである。噂によるとこのドクターの愛車は本来ポルシェなのだそうだ。あまり人を乗せたくなかったからレンタカーにしてくださったのかなと思う。かえってありがたい。この疲労の状態でポルシェの助手席なんぞに乗って、うっかりコーヒーやらよだれやらを座席にこぼしてしまったらと思うと緊張で筋肉が石になっただろう。

13時半になる前に病院を出る。山鹿の滞在、本当に2時間半で終わってしまった。不気味に脳まわりが熱を持っているのがわかる。まだ真っ昼間で、これから研究会の解説と講演があるのだけれど、すでに大きな仕事をひとつやり遂げたような気持ちになっている。危ない。このまま安心しきってしまうと危ない。仕事が終わってから疲労と付き合うようにしないと夜まで持たない。

熊本までの道中、運転してくださっているドクターと、K先生をはじめとするこのあたりの医師たちのつながりや歴史についての談義になる。出張のときはだいたいそういう話になりやすい。尊敬する医師がどうやって人と人とのつながりを広げてきたのか、今回こうして集まる人びとがどこでどう知り合って、どんな仕事を一緒にやっているのかというのを、聞いておくことは純粋にうれしい。ただ、私は残念ながら、人の過去とか連環といったものを、大好きなのだけれど一切覚えられないというおよそ人の間に立つ仕事をしている人間とは思えない大弱点を持っている。残念なポケモントレーナーみたいなもので、集めるだけ集めて自分のストックに何があったかを忘れる。それは興味がなくて忘れるわけではないのだ、「やっぱりこういう人たちには、それだけの縦横の糸がたくさんあるんだな」ということを確認すること自体は大好きなのだ、しかし、そのような織物というか曼荼羅の複雑系を、線形に近似して理解することができないため、情報量過多でふつうにオーバーフローしてしまう。

共通の知り合いの医師の話などをしているうちに熊本市内に入る。1時間というのはドライブにちょうどいい距離だ。初対面の人間同士の会話が尽きる前に目的地が近づいていく。熊本城の一連の光景が目に入る。そうですか、熊本城のすぐ横でやるんですね。天守閣の修理は終わったんですね。ええ、まだ堀のあたりだけ、工事はしてるんですが、そろそろ終わりますね。あの地震はだいぶ前でしたか。2016年とかですね。私は2本とも市内で経験したんですがやはり忘れません。大変でしたね。工事、やっぱり10年かかるんですね。城だけでも10年。そうですね。人の話が土地の話となって拡散しかけたころに車は医師会館の近くのコインパーキングに到着した。14時半である。

研究会の開始は15時。17時には終わって、そこから懇親会がはじまるのだ。今日は熊本市内では花火大会があるらしく、あまり遅い時間に設定してしまうと、街は混むし若い人も参加しづらいだろうという判断があったらしい。熱気の予感の中を医師会館に向けて歩く。