とどまることを知らない咳の連打 いくつもの 龍角散のどあめを のどあめていた(ミスチルっぽく)
もう3週間くらい前のこと。出張の合間に数日、ノドが痛くなった。噂のニンバス(コロナのなんかの名前)かと思ったが、SNSのタイムラインで言われているほどの激痛というわけでもない。検査を二度、しかし二度とも陰性で、検査陰性のコロナだったのかもしれないけれど、熱もたいして上がらないままノドの痛みも2,3日で引いた。そこから数日、ちょっとコホコホ咳が出るなと思ったが幸い外仕事もなく周りに迷惑をかけそうな環境でもなく、次の出張のころにはいったんノドはよくなった。
しかしそこからさらに数日、小康状態かと思われたノドに咳がつくようになった。
これはいわゆるsmoldering inflammation(くすぶった炎症)かなあ、などと、かつてletterに書いた概念を思い出し、やっぱりこないだのあれはコロナだったんだろうかと、だったらこれまでの1週間くらいに私と出会った人びとがコロナにかかっていたらかわいそうだなと思ったけれど、そもそも毎日顔を合わせる家人もちっとも発症しないし、周りにもコロナらしい人がちっとも出てこない。なんか、「そういう風邪」なのだろう。そういうことはある。とはいえ、コロナでなければ安心かといったらそんなこともなくて、今もこの咳はしつこく続いており、龍角散のどあめが手放せない。かつて、コロナが流行っていたころ、岸田奈美が「粉タイプの龍角散がよい」と言って、私も一度試してみたことがあったのだけれど、たしかに効き目はよいのだが粒子が細かすぎて、職場で服用しようとしてうっかり咳でもしようものなら、いや、ちょっと鼻息が荒ぶるくらいの軽いうっかりでも、まるで粉塵爆発のドラマを撮影するときのようなみごとな粉塵が部屋中に舞い上がってしまう。おまけに粉タイプの龍角散は缶の中に入っている量が半端なく多くて、買えば必ず余るし、保管しておくとお好み焼きの粉よろしくダニでも繁殖しないかと気になって、結局けっこうな量を捨てることになる。それがなんだかしのびなくて今回はまだ粉には手を出していない。
「粉には手を出していない」のイリーガル感。
こうして具合が悪いとこぼすと、やれ漢方が聞くよとか地縛霊に祈るといいよとか、周りの人たちはいろいろとアドバイスをくれる。それらをときおり摂取し実行しつつ、たまに恐山に登ったり伏見神社の鳥居を高速で往復したりもして、それでもなおだらだらと治らない咳をかかえて週末の出張をまんじりともせずに待っている。飛行機に乗っている間にあんまり咳をするのも周りに申し訳ない。口の中がカピカピになるほどにのどあめでコーティングし続けるしかない。
とはいえ、のどあめでコントロールできる程度の症状ならば軽症というべきだろう。もっときつい症状に悩まされている人も世の中にはいっぱいいる。かくいう私も、かつて頸椎症に苦しんでいたときには今の比ではないくらいに毎日がうすぼんやりと暗がりに包まれていた。寛解した今、咳くらい、頸に比べればなんということはない、という頸から目線で咳のことを見下ろしている。まあ咳の出どころはノドだから、頸椎症でしびれている左手よりもむしろ高い位置にあるので「見下ろしている」は間違いなのだが、そこはボア・ハンコックみたいに「見下ろしすぎて逆に見上げてる」をやればいいだけのことである。
WHO blue bookを通読しながら胃の良性病変についての総説のアイディアを膨らませている。言われたとおりのことを、文献を提示しながら、学術的に書いていけばそれで仕事をしたことにはなるのだけれど、せっかくだから、総説として書いているにもかかわらず読むと「あれっ、なんか新しいことを知った気になったぞ!?」というようなタイプの記事にしたい。総説(review)というのは料理に近いものがあり、確固たるエビデンスを食材とすると、その食材を加工しすぎず、かつ良さを引き出せるように調理して、食べ合わせを考えながら組み合わせて、デザインして、提供する順番などもきちんとプロデュースした上でテーマに沿った一連のメニューとして提示するとよい。一方、最近の総説は、畑でとってきた野菜を大きい順にそのまま並べただけのものもけっこうあるような気がしていて、そんなことだから和文誌はどんどん廃れていくんだと思うけれども、せっかく依頼が来たのでしっかり料理をしていきたいと思う。料理医。料理医ヤンデル。