ばんじーきゅうす

「漬け物」を、いつか再評価したいと思っていた。それはたとえばキノコ料理がおいしく感じるようになるとか、佃煮のうまさがわかるようになるとか、干物が輝いて見えるだとかいうのと同じで、老化に伴い体がそういうのをだんだん好きになってくる、そういう時期がいつか必ずくる、その暁には、世の中にあるたくさんの漬け物を、逐一あじわって、自分の舌の凹凸にぴったりはまるタイプの良い漬け物を探して、地域独特の漬け物などにも手を出し、デパ地下の高級品やら道の駅の掘り出し物やら各種出張先でのお土産屋やら、そういうのがあるのかどうか知らないがいわゆる専門店みたいなところまで、練り歩いてみたいとひそかに夢を見ていた。

しかしリアルに歳を取った私は、今、塩分が多めのもの全般をなんとなく避けるようになってしまった。しょうゆもドレッシングもマヨネーズも。当然、漬け物にも手が伸びにくくなる。梅干しも。明太子も。

しまった、と思った。存分に漬け物を味わうならば若い頃のほうがよほどよかった。そんなこと、どんな本にも書いていなかったし、誰も言っていなかった。とりかえしのつかなさを思う。

私はべつにそこまでストイックに生活をしているわけではない。九州に行ってうまい明太子があると聞けば食べるし、居酒屋でも味の濃いものをわりと好んで食べる。ただ、それは、あくまで、旅とか外食というのが「ハレ」だからだ。一方の漬け物というのは、もっと日常的に、ケの常食として楽しむイメージだ。生活の中で平均的に塩分の総量を落とそうと思うと、漬け物というのはなかなかメニューに組み込みにくい。

たまにキムチなどをいただくことがあり、びっくりするほどおいしいと思う。しかし、いただきものを食べ尽くした翌日に、私も真似してこれからはキムチを常備したいと思うか、というとそういうことはない。「もらいもの」というエクスキューズを振りかざしたチートデイだったのだ。お茶漬けの元はいつも半量ずつ。庭のきゅうりはそのまま食う。魚にしょうゆはいらない。この暮らしのどこにどうやって漬け物を入れていけばいいのかわからない。



それにしても。

キャンプは老後の趣味にはできないよ、だってそんな体力なくなるもの。とか。

退職したら本を読むつもり、なんてのは気を付けて。目だって悪くなるんだから。とか。

映画館に座って映画をみるってのは大変なんだよ。何よりお手洗いがね。とか。

こういう話はいくつもあって、わりと想像の範囲内というか、ある程度覚悟はしていた。それにしても漬け物が、まさか。

じじくさい食べ物はじじいになってから食おうと思っていた。そんな別け隔てをしていた自分はだいぶ愚かだった。「あっ、いつかやろう」と思った瞬間が、おそらく後から振り返ってみると、一番の好機だったということになるのだろう。


そうだ、明日からお茶にこだわろう。じじいくさいとか言っている場合ではない。お茶っ葉を買わねば。思い立ったが吉日。老後の楽しみにとっておいた、「縁側で陽に当たりながらお茶をすする」が、どんな理由でボツになるかわからない。夏の暑さがきびしくなって、縁側で涼める時間がほとんどなくなってしまうとか、オゾン層がきびしくなって、陽に当たるのがむずかしくなってしまうとか、いや、そんな予想可能な理由だけとは限らない、私の体のほうに金輪際お茶が受け付けられなくなるような変化がいつ起こるともわからないのだ。急ごう。躊躇している場合ではない。エイヤッときゅうすを買わねば。清水の舞台から飛び降りるつもりできゅうすを買わねば。