50000円

少しずつ加速していく毎日に踏みとどまってややゆっくり目に時間をかけて考えるべきものというのが、果たしてどれほどあるのかわからない。おそらくそういったものを明示してくれる優しい人はどこにも存在しない。おそらくそういったものを取りこぼすばかりで私はたくさんのものを失ってきた。しかし、おそらくそういったものの本質的な問題として、考えれば考えるほど失っていくものもあるとは思う。たとえば、税金や相続にかんする手続き、それは基本的に本人にとって何かを失う以外の何物でもないわけだが、そういった、失うためのあれこれを自分で準備して整えるやりきれなさ、切腹のための必要物品を自分で買い求める侍と同種の手続き、税務署とか国税局を相手取るばかりではなしに、自分の思考、思索、思念について、自分を相手取って、一段一段、積み上げるほど失っていく、大脳の奥底の古い伽藍の柱の陰に潜む鼠の腹の足しにする。そういう手続きを経る過程こそが、「ゆっくり目に時間をかけて考える」という行為の一部でありほぼすべてなのではないかと押し黙る。


コートの襟をあわせるとやや暑く、ほどよさとは難しい。


反射的にメールソフトを開いてしまったがメールで返事することはできない。阿部大樹先生からインクの薄いペンで書かれた封書が届いた。献本を私に断られ、かわりに私の希望によって手紙を書いて送ってくださった。よくわからない無礼をはたらいたなあと今更ながら反省。バスケットボール選手が目線でフェイントをかけるような文体である。「質的・時間的に散らばったデータから、どうやって最終的な判断が出るのか、という研究です」。この一言に、私はまず、反論したかった。彼の訳した本を読みながらそうは思っていなかった。しかし、引き受けて、考えて、たしかにそれ以外の読み解き方はもはやないようにも思えて、この瞬間、彼の近著への私の純然たる感想は失われ、かわりに多くの風景がたくさんの振動と共に、視神経の周りに集まって綱引きの準備のように眼球を後ろ側に引っ張る準備をはじめる。ものすごい量の参考文献を付けている原著の著者が、1箇所、女性に関する話題の部分で文献を一切引用しなかったことに彼は訳注を付けていて、なんと緻密な仕事をするのだろうと舌を巻いたのがつい2日前のことである。「ヤンデル先生さま」と書かれた手紙にどう答えかけどう名乗るかを考えている。そういう些末な装飾の部分を必死で考えているという体で、脳のアイドリングを冗長化し、実際にペンを持って便箋に圧を加えるその瞬間までなるべく返事の根幹を考えないように努力する。あまりゆっくり目に考えてしまっては、なくしてしまうかもしれない。やってきたクラファン開始のメールのリンクを瞬時に開いてブラウザで口上を30秒くらいで読み流して高額な寄付をする。Xに「甘寧一番乗り」と書いて寄付の結果をポストする。あれからしばらく経つが次に寄付をする人はまだ誰も現れない。ゆっくり目に考えて、悩んで、寄付をするという心自体を失っておいたほうが、人からは誠実に見られたかもしれない。誠実に見られたいか? 誠実だなあと言われたいか? それはあまりにじっくりとした皮算用ではなかろうか?