なんとかする。なんとかなる。なんとかなってしまっていく。
ニトリで買ったステンレスのやかんはお湯をわかすと金気がまじる。検索すると、ニトリのやかんには化学物質がまぎれこんでいると大騒ぎしている人が何人かいて、一度そうやって気にしてしまうと世の中は何もかもが気になってしまうだろう。たとえば、本人が金属とか化学物質に対するなにかよくない反応だと思いこんでいるものは、じつはまったく関係がない別のものに対する体の反応であるかもしれず、しかし、それを「化学物質のせい」と解釈するに至った人生の紆余曲折みたいなものを、他者がおいそれ否定することはできなくて、それはその人の生き様に対しての明確な真実となっているのだ。ともあれ私のやかんはお湯でくさくなる。これが私の嗅覚とこのやかんならびにお湯との単なる相性問題である可能性はなくもないのだが、対処できない話でもなくて、本日、仕事の帰りに重層じゃなかった重曹でも買って帰って一晩浸け置きにしよう。
重層・扁平上皮。かつて、重層しない扁平上皮なんてあるのか、と思ったが、squamoid(扁平上皮然とした・扁平上皮もどきの)という言葉・形態が近ごろは気になっている。それは先天性嚢胞を裏打ちしていたり、化生の過程で出現したりする、「縦に積み重なる気はないが横のすきまをふさぐ気はある細胞集団」だ。Squamoidな細胞によって被覆された部分というのは、線毛があるわけではないので内部の液状物の輸送効率はよくないし、というか、そもそも中には行き場を失ったなにかが鬱滞してしまっていることのほうが多くて、ときにこのsquamoidな細胞はepitheliaではなくてmesotheliaであったりもするがしかし、上皮と中皮とは似て非なるもので中皮のほうはむしろ隙間をまれに許容するように個人的には感じている。そういった細胞の話をひととおりこすり終わった先達が、熟慮と反復と摩耗の末に選び取った言葉が重層・扁平上皮、これを英語で毎回stratifiedと冠するかというとそういうわけでもないのでおそらく本邦の組織学・解剖学の伝統みたいなものなのだろう。
こういったことを理解しながら忘れていく。気にしながら無視していく。「先月、ご相談した症例があったじゃないですか」。ごめん、覚えていません。「昨日、ご相談した症例の話なんですけど」。ごめん、覚えていません。仮住まいのスタンプラリーのような思索によって、カリスマ医と呼ばれた男はもはや気絶してぶらさがるだろう(スタン・プラリー)。この日◯終わり、悲しきかな! ◯は地球のことだ! 「だろう」で終わる文章を書いているといつも、ノストラダムスの大予言やのび太の大予言を思い出して、世紀末の頃の、あまりそういう社会の雰囲気とか人間同士の食べ合わせみたいなものに興味のなかった自分の、網膜の働いていなさ、そうすることで多くの刺激から自然と身を守っていた思春期の人体のしたたかさ、そこにほどよく入り込んできたドラえもんの構成のうまさに今更ながら感服する。なんとかする。なんとかなる。なんとかなってしまっていく。