文法的にはそうじゃないみたいなことを平気でいうやつら

Grammarlyの年間サブスクの更新をどうしようか悩んでいる。ChatGPTに課金してないのにGrammarlyには課金するというのも変な話……なんて言ってしまうのも変な話か。「課金したほうがいいサービスが受けられる」というのも、「年払いが一番お得である」というのも、幻想となった。LLM系のサービスは週単位でアップデートされ、競合サービスと抜きつ抜かれつ、ときおり急速にいなくなったりびっくりするほどの値上げがあったりと人間様を飽きさせない。1年後にいいサービスである保証はないのに年間払いをしてしまった! 「企業に未確定夜逃げの資金を与えているだけ」。

家族がいう。「サブスクしすぎだよ。もうちょっと減らしたら」。そんなに払っていないと思うけどなあ、と我が身を振り返って、確かにと頭をかく。Google, Amazon, Microsoft, Spotify, DeepL... MetaとXには払っていない、それだけが矜持。Radiko, Docomo, クレジットカード... コープさっぽろの1000円デポジットやSuicaの500円デポジットがかわいく見える。だってこれ、カード返却したら、帰って来るんだぜ。時と課金はただ去りゆくのみ、決して帰ってこないものだ。


『ほしとんで』というマンガがあり、しみじみおもしろいのでたまに読む。日々の暮らしの中で、なにかに触れ、なにかに怯え、なにかにぶつかり、なにかに立ち止まったときに心に「俳句をつくること」があるというのはじつにすばらしいことだなと感じる。尾崎流星も寺田春信も川上薺も井上みどりもいずれもすばらしいキャラだが秀逸なのはレンカ・グロシュコヴァー(日本人とチェコ人のハーフで日本語しかしゃべれない)の造詣である。さておき、彼女ら・彼らはときにふと気づいたことを手元のメモ帳やシステム手帳に書き込んで句作のネタとするのだけれど(こうやって書くといかにも俳句に対してまじめな学生たちが主役のマンガと思いたくなるがぜんぜんそういうわけではないのだ、ただ、全員がほどよくこじらせているだけである)、その、「もっか(目下)・書き留める」という仕草は、おもえばsub-scribeっぽくもあるなあと急に思った。サブスクリプションのサブというのは「文章の下」を意味し、この場合、スクリプトするのは署名であって、アイディアとか連想のタネとかではないのだけれど、もしや俳句になるのではないかと感じて情景や言葉のきれはしを書き留めるという動きのほうがサブ・スクライブとしてぐっといいものではないかと突然感じた。それはたとえばスマホに書き留めるものであってもおそらくいいのだろうけれど、スマホというのはフリックの途中で予測変換がじゃんじゃん出てくるのがよくない、あれには閉口する。まるで思索の行く末を最大公約数的に狭められたかのような「余計な口出し」のように感じてしまうのであった。


プレパラートのラベル欄にものを書くとき、一番いいのはえんぴつ。ボールペンではずるりと滑る。水性マジックをガラスに書き込みまくる病理医は全国にたくさんいるが、どうも私はそれが苦手で、なんというか、細胞のカンヴァスを余計なもので汚してしまうような気になってくる。だからいいのはえんぴつ。細胞に下から光を当てるための透過面ではなく、ラベルの部分の白バックに、えんぴつを少しだけ走らせて、「micropap」とか、「V(+)」とか、「コンタミ?」だとか、そういった、一単語未満のメモを忍ばせる。それらのメモは私以外の誰かほかの人にとってあまり見やすいものではないが、私はそのメモを書いている数秒の間に思考を撥ねさせて、その水滴がとびちった模様を見てまた少し別のことを考えたりもする。これもおそらくある種のsub-scribeなのではないかということを考えて、似たような概念がネットに転がっていないかと検索をかけてみるのだが、GoogleもChatGPTもきょとんとするばかりで私の思いつきにあまり色よい返事をよこしてはくれないのだった。