悪夢

記憶はおぼろげだがかつて、Number Girlの「シブヤRock transformed状態」(渋谷クアトロでのライブ音源)だったか、あるいは記録映像シリーズだったか、もしかすると「サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態」だったかもしれないのだけれど、曲と曲の合間に会場の客のコールがそのまま入っていて、一瞬静寂となったところに

「ひっさっこっチャァーン…………………………好き」

というのが聞こえてきて会場がどっと沸くシーン、あれが好きだった。サッポロの解散ライブではラス前のアヒト・イナザワの冒頭ドラムのときに「アヒトォーッ」と響き渡るたった一人の女性の声、あの声だけはおそらくこの後も忘れることはない。ひさこちゃん好き男も、アヒト絶叫女も、どちらも顔も名前もわからない、25年近く前にライブハウスにいた20代くらいの人間たちだからおそらく私と同年代で今もどこかでSpotifyを聞いたりYouTubeを聞いたり、でももしかするとオルタナバンドブームからは足の遠のいた感じになっている、そういうかつての音楽好きたちなのだろう、けれど彼らの声だけは私の中にあの頃のまま、いや、増幅されまくりひずまされまくった状態で残っているのを不思議だなと感じる。


保坂和志の本を買おうと思う。


首ががちがちになってしまっており、横になって『本の雑誌』を読んでいるとそれはそれでまあ快適なのだけれど、ちょっと寝返りを打つために枕から頭を2センチほど上げようとするその動作が首にきつい。ロキソニンテープは多少利いているようだが結局横になり続けているのも苦痛なので起き上がって、やけに姿勢のいい感じのスタイルで、PCを引っ張り出してきてこれを書いている。平日、日中、さんざんっぱらPCに向き合っているからこその首の痛みのはずなのだが、仕事とは異なる理由でPCに向き合ってその痛みから少しでもラクになろうとしているという私の行動のすべては間違っている。間・違っている。間・違っている? 違っているのは間なのか? 違うという言葉に、なぜ「間」を冠するのか? 間とはこの場合、空間を指すのか、時間を指すのか、あるいは選択における「逡巡の間」を指すのか、はたまた放電するシナプスの間質を指すのか? 若者が「違くて」とか「違ぇーよ」と言うとき、それを「間違くて」とか「間違ぇーよ」と言うととたんに意味がまったく通じなくなるのはなぜか? 間違うと違うの違い。私の行動のすべては違っている、と書くのと、私の行動のすべては間違っている、と書くのの、違い・間違い。なぜ私はこのPCに向きあう自分の心の方向を「違う」ではなく「間違う」と評したのか。首がしびれて顎が強くひきしまって先月の歯医者のメンテナンスで歯科衛生士と歯科医師がくちぐちに「あまりに寝ている間の噛み締めが強いようだと、マウスピースとか、ボトックスとかもおすすめなんですけれどね、どうしますか」と言ったことを思い出す。そのとき、私は、「寝ている間のことなんてわかりません」と言った。そうすると彼女らは、こう答えた。「そうですよね でも 歯を見ると あなたが どれだけ 寝ている 間に 強く 噛み締めて いるのか が わかるんですよ。だって 奥歯に 縦に ひびが 入って いますし 歯と 歯の 間も ちょっと 苦しそう で」。少しずつ言葉がほどけて、もうすぐ私は、ミシシッピー連続殺人事件の登場人物のように、空間と空間の中に彫り込まれたかのようなひらがなで、たった一度ずつしか情報を出してもらえない、リピートの一切ない会話の間で身動きがとれなくなるだろう。


もういいました


さっき はなしましたよ


温泉の予約をとろうかと思ってサイトを見に行くがどこもかしこも満室でまるで空いていない。首のためにこのあとどうしたものかとしばらく考える。寝ていても寝返りで首が痛むし、眠りに落ちれば歯ぎしりが心配だ、起きていれば原稿を書きたくなって、最初は姿勢よく過ごしているのだが文字と文字の間で息を詰めて鼓動をまさぐっているとだんだん私は姿勢が悪くなっていく。姿勢という文字にはなぜ勢いが込められているのだろう。姿勢というのはもっと、勢いを殺してたしかな状態にすべきものではないのだろうか?