エルメスは脳筋

週に何度かそこそこの距離の運転をするようになり、そのぶん、ラジオを聴く機会が増えた。本を読む回数が減っているのはうれしくないが、生活が変わってもラジオを減らさなくてよいというのはうれしい。ひとり語り系もよいけれど、基本的には2,3人で会話をしているほうがいい。内輪の話を延々とされるくらいならば、共通の話題を真ん中に置いてキャンプファイヤー的に語られているほうがよほどありがたい。「職人」からのお便りの「うまさ」に舌を巻く、という放送作家が好きそうな構成も、嫌いではないけれど、できれば、会話・対話の中ではじめて浮き上がってくる「綾」みたいなものを感じられる枠組みのほうが望ましい。そんな番組はめったにない。「日曜天国」ですらこの意味では微妙に該当しないと思う(日天はおもしろいのでよく聴くけれど)。タレント、光、限られた能力、みたいなものがバキバキに光り輝く系の番組は、視聴率もいいし提供する会社も多くてコーナーの数だってたくさんある、しかし、そういう、一握り、選択圧、盛者必衰、みたいなハードルの先にできあがった伽藍のようなコンテンツは、いまいち運転という場にも私という対象にもマッチしないのであった。「東京ポッド許可局」がちょうどいい。あのちょうどよさは奇跡的である。ああいう番組ばかりがあるとそれはそれで鼻につくかもしれない、だから、あの1番組だけがあればいいのだと思う、ただ、週に一度の番組だから、どこかに行って帰って往復しようと思うと尺が足りない。もっかの悩みである。東京ポッド許可局が毎週4時間ずつ放送するようになればいいのに。それはそれでぐったりするかもしれないが。


ちょうどよいものというのはそうそうない、ということを骨身にしみてわかっているつもりだ。というか、自分の生活とか性格に対して、「本当にちょうどいいもの」というのは、おそらくぴったりマッチしすぎて、でこぼこやら引っ掛かりやらがなくなって、それはたぶんジグソーパズルの最後の1ピースをきれいにはめ込み終わったあとのようなもので、「どこが足りなかったのか、もはやよくわからなくなってしまった、動くことのない一枚の絵」なのであり、いちいち意識もしなくなる。それが当然ということになる。飾られてそれっきり背景化する。だから私はいつだって、「ちょうどよくないもの」のことばかり考えている。つまり私は一生、「うまくいっていないもの」のことばかり考えながら過ごすことになる。そういうものだと知っておかないといけない。そういうことだとわかっていないと、「なぜ私の人生はこうもうまくいかないことばかりなのか」という、問い方をまちがえた命題にずっと関わっていかなければいけなくなる。すごい、それはきびしいことだ、かもしれませんね、SAMURAI。


前の職場のデスクにサボテンを置いたままだということに今気付いた。まあ、あれは、たまに水をやりにいけばいいか、と思った。サボテンは「足りないこと」に対して比較的、無頓着である。すぐに乾かない。不満を言わない。口があったとしても無口だろう。しかしそれは、サボテンがいつも満ち足りていることを意味しない。始終なにかしら、乾いているのだ、そのあたりは飼い主とよく似ているのではないかと思う。


デスクの空調が強いですか、と気を遣われた。なにも感じていなかった。暑さ、寒さ、気になるときはなるだろう、しかし近ごろの私はそこよりもほかにたくさんの気がかりなことがある。ひざかけ、サンダル、水分確保の手段、そういったものよりも、切り出し、迅速、外注検査のオーダーの仕方、そういった細かなことたちが気になっている。満たされるまでしばらくかかるだろう。満たされたら平板になって意識の下に潜っていくだろう。次に私が考えるのはまた次のでこぼこのこと。「キノの旅」に出てくる、線路を敷き続ける老人、それを外し続ける老人、それを追いかけていくまた別の老人の風景が思い浮かぶ。感想を抱えながらも何も告げずにその場を立ち去るキノの気持ちになる。