前にも川霧のことを書いたが最近はよく霧の中にいる。抽象ではなくて実際に霧なのだ。朝、けっこうな確率で霧となる。電車や高速道路でも霧との遭遇率が高い。気温が規定して大気に許容する水分量と、実際に空気の中にただよっている水分量とが噛み合っていない地域で暮らしているということだ。潤沢、と表現してもいいし、過剰、と表現してもよいし、制限が厳密、と表現してもいいし、ミスマッチ、と表現してもいいだろう。さまざまなものの飽和量の話の隠喩として用い放題だが用いない。別にそこまで横滑りさせなくてもいい。すぐにコネクトするのは現代人のよくない癖だ。もっと各個べつべつでいいのだ。そんなに括弧の中に入れなくていいのだ。
曲学阿世、という言葉もあるが、世を曲げて学に阿るような場合もけっこうあると思う。過度な一般化についての話はこないだも書いた気がするが、近頃の私の興味のわりと正面よりに、少なくともフロントガラス越しに視認できる範囲に、そういった「なんでもかんでもコネクトしてしまう癖」をリスクとして認めている。
たくさんのものごとが、互いにつながらず、人は人、我は我、されど仲良し、的なかんじで、互いのゆらめきを視野にぎりぎり捉えながらも、辺縁視しかせず網膜の真ん中にはとらえようとしない。モナ・リザの口元を見ずに額縁のあたりを見ていると貴婦人が笑っているように思えるときの、あのかんじで、同じ世の中の違う場所にいる物事たちを、注視せずに、しかし肌で感じ続けている。それくらいの距離感というものを、特に誰に教わらずとも、近頃の私達はなんとなく身につけている気がするのに、こと、文字をもちいてコミュニケーションをはかる段になると、とたんにあれこれを結びつけて隠喩だ肝油だ公瑾だとやかましくなる。3次元空間に広がっていて位置情報だけだと相関の有無がわからなくなる現実の世界と違い、冒頭から読み下すことを基本とする1次元的な文字情報では因果の矢印が強調されやすくなるから、みたいな、すごく適当なことをたった今考えたけれど、これに似た話をいつかどこかの偉い人が何倍もむずかしい語彙をもちいて滔々と、それこそ水が流れるような勢いで語っていたのを聞いたことがある。
それではだめな気がする。水は一方向に流すイメージではだめだ、おそらく、溜めるなり、打ち寄せるなり、匙で混ぜるなり、排水溝にウズをつくるなりしなければだめなのだ。沈み込み、浮かび上がり、覆い隠し、いつのまにか引く、水とはつまり海とか、それこそ霧のようでなければつまらない。はじまりはあるがそれが真のはじまりかはわからない。区切りはあっても終わりはない。なくなったと思えても相転移しただけ。無から産まれることはなく、しかし、降って湧くことはある。霜として着氷することもあっていい。足を滑らせないように。コートはときおり、クリーニングに出すように。