辟易一閃

だれかと一緒にテーブルやらホワイトボードやらAmazon印の段ボールやらを、せーので一緒に運んだり、手分けしてそれぞれ運んだりするような暮らしが続いており、片棒をかつぐというか、四隅を持ち上げるというか、ひとりで何かをやりきらない時間がとても多くて、ああ私は今、社会人なんだなあと、いい年をして納得する。自分の体と自分の手足で完結するようなタスクの少ないこと、少ないこと、これを、「歯車」と表現した呪言の根強さにおどろいてしまう。いやそこまでがっかりと軋むたぐいのことでもなく、実際には私たちは、ケーブルとかコードの先に浮かんでいる電球じゃなくて、溶媒のなかにふわふわ溶け込んで濃度勾配をつくりながら拡散していくホルモンみたいな存在なんじゃないかというだけのことである。

しかしまあそういう話ばかりしている気がする。あちこち違う人に手を貸しながらやりくりしていくとき、おそらく、前の人たちには語った前提を、あらためて次の人たちにもまたしゃべる、みたいなことが発生するので、私は少しずつ、同じことばかりしゃべるようになっている。

いつも違う相手と、毎日同じ話をする、みたいなことになるわけである。


抄録の査読をしたり論文の査読をしたりしながら、自分の発表の準備をしたりあらたな研究を立ち上げる準備をしたり。新しいことをはじめるにあたっては、1つ、2つくらいに絞っておいたほうがいいのではないかと思うが、こちらの都合により、15個くらいの新しいことをいっぺんにはじめている。真鱈をキノコといっしょにクッキングシートを使って焼く、みたいなことも、この秋にはじめて取り組んでいる。なにもいまやらなくてもよいことなのだが。SNS医療のカタチがやさしい医療のカタチと改名して横浜市とコラボすることとなった。なにもいまやらなくても……いや、遅いくらいか。

なにもかも、遅いくらいだ。47歳にしてアカデミアに戻ろうとしていることも、魚料理に目覚めていることも、先日とどいたSwitch2も、このブログを、あらゆる仕事が終わった夜中の2時に書いていることも。


先日カンファの最中に意識が飛んでがっくりと首がうしろに傾いたらゴキと音がした。首を左右に動かして鳴らすのはやることがあるが、真うしろに倒れて鳴ったのははじめてだなあと、少し感慨深いものがあった。でもなんとなく、予想ではあるが、この首の動きはおそらく体に相当よくないので、今度からは瞬間的に居眠りする時はなるべく首が横や前に倒れるような姿勢でカンファに臨みたいと思う。心構えが遅い。なにを新入社員のようなことをつらつらと書いているのだ。この記事ができるまでに6時間ほどかかっている。遅い、遅い、あっという間に冬が来て外は真っ白く雪景色で、いつのまにこんなに季節が過ぎ去っているのかとびっくりしたけれど、どうやら私がなににつけても遅いから相対的に世の中がすばやく過ぎ去っていっているのかもしれない。気づくのも遅い。