秋じゃけぇのう……などと言いながら秋鮭の切り身ばかり買う日々がヤクザめいている。気温としてはまだ一桁あるのだが気分はだいぶ寒い。昨年の真冬に着ていたマウンテンパーカーのへたり方が気になる。クリーニングに出すとワタが復活するよ、と言われたりもする。この上着にワタは含まれているのだろうか。中にウルトラライトダウンでも仕込んで着ればまだ2シーズンくらいは防寒できそうだからまあまだこれでいい。フードのところがぼろぼろになっていることに目をつぶる。目は耳と違ってまぶたがあるからつぶることができて便利だよね、みたいな話をたまに聞く(耳はつぶることができないのでこういった話を何度でも聞くはめになる)。
キャベツを手でちぎってツナ缶の半分をそこにあけただけの簡単サラダを食べたいのだけれど、底の丸い皿にほどよいのがない。100均で買おうかとも思ったが自宅をひっくり返せばおそらくどこかにはあるだろう。ひとまず、皿を見つけるまでキャベツを買うことを保留する。キャベツを買うと食べたくなるから買わないでおく。食べたくなる気持ちを20%くらいのところで収めておく。買うと一気に80%くらいまで高まってしまうから買わないほうがよい。
おだやかな日々を過ごすために必要なことは、買い物カードを逆位置に表示することで生活というバトルをディフェンシブに安定させることである。新しいものを買えば新しい動きが必要になる。新しいものを買ったことによって自分の心をポジティブな方向に持っていかねばならない、という義務感がある。そういったものから我と我が身をフリーにする。今あるものでやっていく。今あるものを食っていく。飽きることに慣れる。慣性に身を委ねる。
10日後に迫った研究会の病理解説プレゼンをまだ作っていない。そもそも今使っている顕微鏡にカメラがついていないからプレゼンを作れない。私の着任にあわせて注文したはずの顕微鏡は当分届かない。新しいものを買うというのはこういうことだ。「業績の上方修正をペンディングする」みたいなよくわからない中間的な時期を過ごす。新しいものなんて買わないほうがいい場面は山程ある。それはごく個人的な話でとても内向きの話で、だれかとシェアできるたぐいの話ではないのだけれど、たぶん、買うより買わないほうがいいという場面は、その逆よりもたくさんある。
メールを見てふふっと笑って家族にいぶかしがられる。「例のプレゼンを発表してまいりました。ご指導ありがとうございました。ご列席の◯◯先生から、『前に見せてもらった君たちのこのデータのせいで、ぜんぜん他の研究に集中できないんだよ』と言われました」。楽しそうだなーと感じる。新しいデータには「ゆるがす力」がある。新たなものが従来のものと矛盾したとき、それをまっすぐに取り入れるか、まっすぐに無視するか、その二拓でしかないとしたら、それはずいぶんとつまらない話で、臨床も研究もうすっぺらくなるだろう。私達はゆらぐべきだ。角度によってシルエットが変わる幻燈機。語り部ごとにあらすじが変わる民話。狭隘の形状に合わせてぐねる猫。新しいものによって過去の意味が変わり未来の筋道が消える。越し方をおしはかり行く末を振り返る。ワークに新しいものを。ライフに新しくないものを。お金で変えない生活(もの)がある。変えるものはオーバーワークで。