ピーピーうるさくメールが鳴る。調整案件が多い。ピーピー言っている。こちらもピーチク返すことになる。ピーチクパーチク、という言葉の、「チク」の部分が美しい。耳をきちんと開いて受け取って、あるだけの文字の中からうまく探り当てた音なんだろう。ずばりはまったオノマトペは長く残る。それで思い出したが、飯を食う擬音に、「もっもっ」みたいなのを最近よく見る。あれはどちらかというと、食べている人間の内部反響ならびに骨伝導で聞こえてくる音であり、周囲にはああいう感じでは聞こえないはずだ。つまり食べている人間の主観を共有する目的に沿った擬音であるから、空間に響くような絵文字で描くのは本当はずるいのではないか。描くなら身体の内部に描くべきだ。そんなことが漫画の技術的にできるかどうかはまた別として。
洋風のきゅうすに茶こしのカナアミが入っていたのをとりはずし、百均で買った小さなネットの中にお茶っ葉を入れて、それを直接きゅうすの中に落として、お湯を注いでみると、カナアミでお茶っ葉を受けていたときよりもやや濃くお茶が淹れられるようになった。カフェインもしっかり飛び込んでくるかんじがする。うまくいった。でも、こんなにカフェインはいらないから、今度から番茶を買おう。ほうじ茶の葉っぱを見るのはとても久しぶりだ。40年近く前、実家の食卓には、すおっ、かぽっ、と開き、かぽっ、すおっ、と閉まる、円筒形のお茶っ葉のケースがあった。感触を思い出す。空気の圧がふたの隙間から逃げるのを感じながらふたをぐっと閉める。あのころの私がお茶を入れていたとは思えないが、あのふたの感覚だけをなぜか覚えている。ぴったり閉まるものが好きだったのかもしれない。あるいは、母か祖母かが、それを開いたり閉じたりするのを見ながら、彼女らの体内に響く振動や音響を絵文字のように見てとって、自分の中にもひびかせていたのかもしれない。
文字として目にすることで自分の中にひびく他人事というのがある。それは鍵盤を垂直に叩くと音が出るとか、プロトンのスピンが白黒画像になるといった、雑に言うところの変換を経た入力であり、変換の過程で次元が圧縮されたり誤差がならされたりすることもあるにせよ、ときに、変換しないと見えてこないニュアンス、変換することではじめて聞こえてくるメロディみたいなものを生み出すように思う。「言語化」という言葉がやすく使われるようになり、言葉というものの特殊性にぐいぐい迫っていくでりだ!(※べきだ!みたいな勢いで) のにも少々飽きてきたところだが、この言語化という言語自体が擦れっ枯らしているということをさておけば、言語でないものを言語にして置いておきそれが自分の身体でどうひびくかを探る作業というのは決して悪いものではない。ただ、考えるのは楽しいが、うまくハマることはかなりまれだ。チャクラに気を練るときの擬音とか、何をどうあてはめてもしっくりこない。フオオとかキーンとか。昔のアニメで使用可能だった効果音にひっぱられているだけじゃないのか、と思う。かといってあまりに独創的で自発的なオノマトペを持ってこられてもとまどうばかりだ。『映像研には手を出すな!』の中に出てくる、カップ麺にお湯を注ぐときのオノマトペ「たしお~」、うん、こういうことをやりたかったんだろうな、でもちょっとイキリを感じるな、と思って冷めてしまう。しろきはいがちになりて、わろし。