ストレスというものは、自分で認識して把握できた時点で、それはストレスとは微妙に違うなにかに変換されるのではないだろうか。つまり、このストレスチェックをするだけで、私のストレスは何%か減るのではないかと思う。ただ、その、何%か減ったというのが、実臨床的にすごく意味があるかというと、そういうわけでもなくて、このストレスチェックでストレスを減らした分、かわりにべつの名状しがたいストレス(繰り返すがストレスとは本来名状しがたいものではないかと思うので重言である)が発生するように思う。つまりストレスチェックというのは誰にとってよいかというと、おそらく、「こういうセルフストレスチェックでストレスを減らしてほしいナー」ともくろむ雇用側にとってよいのだろうという気がする。誰かにとってよいならそれはよいことである。
毎日ネクタイを締めていることもストレスかもしれないし、バフかもしれない。その両者は分けられるものではない。バフという言葉は昔はなくて、かわりに、ブーストだとかニトロだとか言っていた気がする。高橋名人の冒険島でいうとスケボーだ。スピードは上がるが後戻りができなくなり事故の確率も上がる。おそらくネクタイというのはそういう存在なのではないか。
着々と学会の準備が進んでいく。私に決定権があるわけではない案件が多いので基本的には会議に顔を出しているだけなのだけれど、なんというか、偉い人たちが、事務的なことが得意な人たちと、ああでもないこうでもないとすりあわせをしていく会議に、延々と顔を出していることが近頃はそこまで苦痛ではない。苦痛を自覚していないだけかもしれないが、なんか、こういうのに身を浸すことが職業的には必要なのかなということを、飲み込めるくらいには経験を積んだように思う。好きでやっているというほどでもないけれど、うんざりすることでもないし、わくわくはしないが、しみじみはする。
これはいい、これは好きだ、これはいや、これは嫌いだ、みたいな単純な判断を使う場面が激減している。どうも、いろいろ、単純ではない。からみあっている。両方の神経をちょっとずつ触れている。
単純に好きと言い切れるものが、今、どれくらいあるだろうか。たとえば旅行のことを考える。楽しいばかりではない。うきうきばかりではない。細々と気を揉む。しかし、気を揉むことがいやだというわけでもない。トータルでは好き。しかし、好き一辺倒というわけではない。まぜこぜである。酒・食い物にしたってそう。読書にしてもそう。音楽にしてもそう。
にしては「推し」がブームである。強い「好き」を表示することが流行っている。まあ、うれしそうでなによりなんだけど、推すってほんとうはもうすこし面倒なものなんじゃないのかなという気もちょっとだけしている。