ひっかける

出張の際の荷物をスリムアップさせたのは基本的には正解だったのだが、爪切りを持ってこなかったのはよくなかった。メールの返事くらいはできるけれど多少長い文章を書こうと思うと爪がじゃまである。爪というのは段階的に伸びるわけではなくどうやら階段状に伸びていくようで、昨日まではぜんぜん気にならなかった、なんなら今朝の早い時間には問題なかった爪が今はもうキーボードにぶつかって邪魔でしょうがない。そういうままならなさを多少なりとも抱えたまま、未解決の状態で、納得せずに、やっていく、そういうシーンが増えた気がする。ラウンジの近い席にいる中年男性が大きなげっぷをした。何を考えて生きているんだろうとふしぎに思う。どうにかならないものかと真剣に思う。そしてこれは解決しないまま抱えていく話なのだろうなということをしみじみ思う。そういう繰り返しなのだということを身にしみて感じている。

大きな選挙や小さな理事会、中くらいの会議、些末なひざの突き合わせ、軽快なボケの連打のいくつかにツッコミを返すこと、そういうものたちを疾走するように通り過ぎていくが、どうも、たまに、すごく遅いスピードで、車窓から手を振って別れの挨拶をしてもなかなか発射しないJR北海道の遅延した特急のようなイメージで、本来は次々流れ去っていくべきものたちにいつまでもかかずらっている、粘性の高い暮らしになっている。ひとつの出来事に総体として包含されていた、異なる感覚神経を震わせる別個の体験が、ばらばらになって、あるものは忘却され、あるものだけがいつまでも残響のようにがらんどうの体内に反射している、そういうこともある。息子と食べたひつまぶしの味をもう忘れてしまったが満腹感だけを相変わらずひきずっている。二段階くらい安いものにしてもよかったのかもしれない。しかし、これは、そうやって、忘れようとしても思い出せないくらいの衝撃と、覚えようと思っても忘れられないくらいの軽薄さとの間に、息子との時間を封印するための私の生存戦略ではなかったか。


形容詞が多い、と老病理医にしかられたことを今日も思い出す。


レジリエンスという言葉を日本語にせずによく使うのだがどうもそういうものでもないような気がしてきた。必要なことは「さらりと手離れすること、さっと水気が切れること」と、「簡単に手放さないこと、豊かに包みこんで癒着すること」の両方なのかな、ということを近頃よく思う。その人のすべてを持ち去ってはいけないが、その人の一部をどこかに刻み込むということ。


親戚と会った。正確には、親戚と会った、らしい。向こうは声をかけてこなかったのだが後日DMが来た。なんだ、だったら声をかけてくれればよかったのに、と思ったけれどすぐに思い直した。このほうがおそらく、ずっと覚えているだろう。それが生きる秘訣というものだ。それが暮らしのヒントというものだ。手帳を使うのはボールペンの先の粘性が記憶の鈎になるからである。ダジャレを使うのは言葉の中の粘性が関係の鈎になるからである。