アロスタシス

二度寝をしても十分に早い時間に起きて、二度寝する。次に意識のフォーカスが合ったとき、まぶたの向こうに人影を感じて、目を開けるのを少し躊躇するが、タイマーでつけておいた暖房の風が洗濯物を揺らしていただけだった。スマホのメモを見て、食卓においてある手書きのメモを見て、仕事の予定と買い物の予定、Kindleを開けば新刊がダウンロードされるのを待っている。朝飯の支度をしながらテレビを付けると季節外れの豪雪のニュースをやっていて、思わず窓を開ける、たしかに雪は積もっているがそこまで豪雪というほどでもないなと感じる。あの家はどうだろう、あの家はどうだろうかと、いくつかLINEをしてみるけれど、どこもかしこも「別にニュースほどじゃないよ」との返事で、安堵する。ただ、週末の高速道路はやめたほうがいいかもしれないと思った。雪の振りはじめの時期、朝や夕方には残念だが必ず事故が起こる。巻き込まれそうで怖い。事故は毎年繰り返されており、なんとか予防できないものかと思うけれど、事故はひとりの人間によって繰り返されているわけではなく、人類が総出で代わる代わる繰り返しているだけのことで、高速道路から見ればあいかわらず同じような見た目の人間が同じようにスリップしているなあと感じるだろうけれど、私たちはひとりひとり別個の細胞である。「反復性の虫垂炎」とか「繰り返す胆石発作」のことを考える。なぜこの虫垂は何度もいたむのか、とか、どうしてこの胆嚢はしょっちゅう仙痛を起こすのか、なんていうけれど、実際にそれを起こしているのは、毎回同じ要因にみえてもじつは中身が入れ替わっていて、それぞれ違うものによって似たような光景が再現されているに過ぎない―――いやまてよ、虫垂なら同一の糞石が、胆嚢なら同一の胆石が、悪さをしていることもあるわけで、つまりそれは高速道路の側にも事故の理由があると、いや、高速道路は虫垂で言えば虫垂壁、胆嚢で言えば胆嚢壁であろうが、石は道路そのものではなくて、道路を埋め尽くす外来の物、たとえば雪、つまり雪のせいだ――。結論、「雪が積もると危ない」。何も引き出せない無駄な循環思考の跡を、一歩下がってブラウザを薄目で眺めてためいきを着く。

鼻の中の表皮が乾いている。あんなにたくさん洗濯物を干して寝たのに。

出勤の準備を終えて、緑茶を沸かして水筒に入れ、残った茶をマグカップに入れて飲む。昨日はこうして茶を飲みながら、『シルバーマウンテン』の2巻を読んでいたら、あまりにおもしろくて、物語の時間に引き込まれて何時間も過ごしたような気になって、マンガを読む前に飲んだはずの血圧とコレステロールと痔の薬を、マンガを読んだあとにうっかりもう一度飲んでしまい、それでなんとなく一日血圧が低くてかなりしんどかった。コレステロールも減ったろう。なのに痔は別にそこまでよくなっていない。この薬はいったいなんなんだ。何に効いているんだ。何にも効いていないのか。気が利いているわけでもないし、言い聞かせられたわけでもない。ただ、毎日、違う物性を同じとみなして繰り返し摂取し続けることが、昨日と違う素材でできた自分を昨日と同じだと認識する上で必要だというだけの話である。