めちゃくちゃたくさん飯がデリダ

ライプニッツってすごいよな。名前にプニッが入ってる。SNSみたいなことを言うね。暮らしが文字でできてるタイプのこと言うじゃん。なんとなくそういう会話を文字でやった。飲み屋でやったらだいぶ厚みのある話になったんだけど、残念ながら、私はもう、飲み屋で雑談をする習慣というのを失ってしまったので、たまにこう、DMなんかで、みずからのDIP関節より先の部分の人間性だけでやりとりをして、送信も受診もじぶんの背骨には近づけない、みたいなタイプのコミュニケーションだけをして日々を楽しく暮らしている。

教え子のひとりからひさびさに連絡がきて何かと思ったら「年末年始、札幌にいるんならうちらが働いてるガルバに来い」みたいなお誘いで、勘弁してくれと思った。なんでこの年になってガルバルディβのメンテナンスをしなければいけないのか、意味がわからない。ひとまず返信をする。「お若いの それをしまってくれんか 私にはまぶしすぎる(ラピュタ)」。するとすかさず返信がくる、「なにそれぜんぜんわかんない」。Zガンダムはわかるのにラピュタはわからないのか。まったく、最近の若者はなんでも縦割りSNSだからな。



文字の中で醸成されていく思考を見ていると、日本国内でいちばん高い山が富士山、みたいなことを考える。山の高さというものは、私の理解の限りでは海面からはかるはずだが、それは世界の8割を海で浸してならしているという前提があって成り立つものであって、たとえばこの地球の水分をすべて干上がらせたとしたら、山の高さはおそらく地球の重心から測定しなければいけなくなるだろう。すると果たして富士山というのは日本で一番高い山になるだろうか。まあ、低い山にはならないと思うが、地球のコアから正確に線を引いてはかると意外と穂高岳とか槍ヶ岳あたりも富士山とたいしてかわらない、誤差範囲くらいの標高になってしまうということはないか。ていうかそもそも日本という境界がわからなくなるんだった。韓国も中国も、台湾も香港も、北方領土も、指で点字を撫でた程度の凹凸としてすべて包括されてしまう。そしたらカンチェンジュンガと富士山とを地域でわける意味がなくなる。ていうか、ヒマラヤ山脈なんて、球体の表面を手作業でレンダリングしたときのトーンのシワ、ずれて寄ったひずみにすぎなくて、それが一番高いと言われても、うーん、まあ、そうかもしれないけど、この程度の差なんだなあ、ていうか新しい地球買ってもう一回表面を貼り直したら? スマホの保護シールみたいにさ、なんて、だんだんどうでもよくなるんじゃないだろうか。文字の中で醸成されていく思考を見ていると、海を干上がらせた地球を対置させたくなる。海面あっての、表面だけの、いちいち領域を狭く囲った上での、微細な高低差、それを意味だとか差延だとか言っている。滑稽とは言わないが、しかし。本当はもっと、地球の内部に傲然たる体積と熱があるように、思考の内部に無形だが無味ではないなにかがグルドロとうずまいているのではないか。そこにダイブしないと巻き込まれないような意味の奔流がある、それを放ったまま、なにを薄っ皮の部分でぐだぐだやっているのかと、舌打ちなどしたくなる。


実家で過ごしていると飯を食うわけだが、飯がいつまでもある。私が普段、米を炊き、汁物を用意し、魚をやいて、レンチンキャベツや玉ねぎの上にキムチをのっけて、15分くらいで食べ終わる「バランスのよい夕餉」なんてものは、表層をなぞっただけの飯なんだなということを、考える。朝・昼・夕と3度にわけて食する、たくさんの野菜が圧力鍋で煮込まれた汁。主菜1,主菜2,主菜3,パンとご飯とどっちがいい? でもどっちも出すね。タマゴ。タマゴ。かりんとう。りんご。シュトーレンがうますぎて2回買ったんだよ。食材自体はどこにでもあるものだ、食費もそこまでかかってはいない、むしろ質素とも言える買い方で間違いがない、しかしそれらが、熱を通され、湯をくぐらされ、互いにディップしあうソースとなりボディとなって、渾然一体として、1時間も2時間も、会話をふりかけながら延々と続く食事、というよりもこれはもはや、生活時間の凹凸を咀嚼によってかみしめていると言ったほうがいい、そんな「飯がいつまでもある」状況を見て、私が普段、単身赴任の部屋でひとり作っている食事なんてものは、何品目あろうが、どれだけカロリー計算していようが、所詮は文字にして理解しただけの「浅くペラい食事」でしかない。