生活

職場が変わっていまのところ、明らかに前の職場よりもうれしいことというのが一つだけあって、それは12月29日(月)が休みだったということだ。年末年始の休みが1日多いのである。はしゃいでしまった。うれしい。思ってもみなかった。ありがたい。体重がその分増えた。実家でごろごろしてしまった。息子とカービィのエアライダーなどやってしまった。

いろいろ移り変わっていくなかで「これが真実」というのは本当に、肉体の数だけあるのだな、と思う。たくさんの理屈が培養細胞のようにモシャモシャ増殖していく、それを増殖させるのがSNSのかつての役割だったと私は感じている、が、理屈というのはそのまま虚空でいつまでも増殖できるわけではない。「足場依存性」があるのだ。

コーティングしたシャーレ、独特のpHに調整したゲル、なんでもいい。なんでもいいが、どこかに、理屈はどこかに足を降ろさなければいけない。接地しなければいけない。

接地して、理屈の細胞膜、すなわち外部と内部とを隔てる境界の部分に、物理的な圧と、化学的な結合、なんらかの電解質の流出入、もしくはチャネルの起動と開閉、そういったものをドミノ倒し的にかたかた動かしていくことではじめて、理屈の内部に流れが生じ、輸送が起こり、修飾がかかり、引き続いてファゴサイトーシスであったり糖鎖の生成だったり、なにごとか、接地前には稼働していなかった機能が活性化しはじめて、理屈は生きた細胞群のように代謝しはじめる。

理屈は継続的な代謝によってはじめて筋を通せるようになる。ふわふわとただよっている理屈に価値はないし、なにかを動かす運動量もない。どこかに接地する、そのどこかというのが、私たちの肉体であり、体験であり、実感であり、そして、かつてLOSTAGEがツアーのタイトルとしたところの、「生活」なのだと思う。





医畜は継続的な退社によって初めて血を通わせることができる。私はおそらく無限にデスクで働き続けてもさほど傷まない心を持っている、それは心ではないのかもしれないが私は個人的には心の一種だと考えている、が、しかし、私が仕事で稼働させる理屈のいくつか、それはおそらく、全・理の15%とか10%とかその程度にすぎないとは思うが、私を保つための要となるような大事な理屈の一部は、私が生活に接地していないと効力を持たない。したがって私はいつまでもデスクにいてはだめなのだ。定期的に退社して、自分がひとりの代謝する退社物として血を通わせているのだということを、みずから確認しながら地に足をつけないといけない。そうしないと、私のあらゆる活動には本来のポテンシャルに見合っただけの効力が生まれてこない。そういったことを、なんとなく、うんざりと考えている。帰らないといけないのは仕事のためだ。私は理路をめぐるために帰路につかなければならないのだ。