生地をよくこねるのは空気を逃がすため

河合隼雄と鷲田清一の対談本を読んでいると、河合隼雄がぶっそうなことを言うのである。「殺人事件の犯人の年齢は48歳とか49歳あたりがいちばん多い」。これに対して「へえ、キレやすい若者なんていうけど違うんですね」みたいな会話をしている。まあもうちょっと知的な会話なんだけど、エッセンスを適当に引き抜くとそういうことを言っている。

年を取ればニュアンスが増える分で恨みも増えるとか、もっと高齢になると人を殺すだけの体力もなくなるとか、解釈はいろいろできるにせよ、殺人事件の犯人なんてそもそも母数が少ないし、ちょっと何か特殊な事件があったら全部ひっくりかえっちゃう程度の、有意とは言えない統計の話だよなあ。と、まあ、話半分で読んでいた。しかしそこから彼らはちょっとおもしろいことを言った。

「人間、だいたい49歳くらいで最後のだだをこねるよね」

ほう。


だだをこねるってのはつまり子どもってことだ。しかし、大人は100%大人で生きているわけではないし、逆に未成年がピュア・子どもかというとそんなこともない。女子高生があるときふと大人びて見えることもあるし、はしゃいだ大人がまるで子どもの風貌であることもある。そういう入り混じり、混在、同居、統一感のなさに人間の厚みみたいなものが出てくる。だから大人であってもだだをこねる。ただまあ、5歳児ほどの頻度で床にひっくり返って足をバタバタするわけでもなく、たまにしかこねないし、表現型ももう少し複雑だ。そして、49歳くらいで、これで最後だとばかりにだだをこねる。ちょっと家庭をないがしろにしてみたり、長年やってた仕事をちょっとやめてみたりする。……「ちょっと」? 子どもならちょっとで済むかもしれないが、大人がやると一大事だよ? そうなのだ、だから、「だだ」なのである。わがままとかいうレベルじゃない。「だだをこねる」という言葉があてはまるのである。


かつての人間たちの文化は、「入り混じり」に伴う責任の所在のあいまいさを回避し、仕事や関係をシンプルにするための装置として、たとえば割礼とか、あるいは成人式のようなものを用意した。強制的に「今日から君は大人です」とやっていた。そして「まだ君は子どもだよ」という命令も機能していた。今はそういうのはだいぶ減ってきた気がする。残っているのは、「お酒は20歳になってから。」あたりだろうか。医学的な根拠があるといえばある。しかし、20歳と19歳とで医学的になにが違うんだと言われたらコトバを濁す(違わないとは言わないが)。医学的な根拠というなら、18歳以降は献血ついでに採血でアルコールの分解力を測って、飲めそうなら飲む、とするのが本来の進歩的な医学の示す道筋であろう。まあ行政的にそんなめんどくさいことしなくてもいいが。そこでべんりに使われるのが「お酒は20歳になってから。」。割礼の遺物みたいなものである。

子どもと大人はそう簡単には分けられない。だったら分けなきゃいいじゃん、というのも短絡だし、全く分けないままでいいというのも思考停止である。

人間、年を取るにつれて少しずつ分化の度合いを高めながらも、まだどこか多能性をもっているような、どこぞに幼い心を隠し持っているような状態が、20歳はおろか、30歳になっても40歳になっても続く。薄力粉を水でといた感じに薄く引き延ばしたモラトリアムの最後のひとペラ、そういったものが、49歳くらいになると……つまり「50歳」といういかにも記念感のあるコトバを前にすると、引退前の最後の大仕事とばかりに鎌首をもたげてくる。

それが最後の「だだをこねる」ということなのだろう。河合隼雄と鷲田清一はそんな考察をしていく。ぼくはもはや、バカにもできず、笑いもせず、ひたすら唸っていた。なるほどなあ。理屈はともかく感覚が「そういうこともあるかもなあ」と感じている感性で納得してしまった。

河合隼雄はこのことを「ラストダダイズム」などとダジャレにしているのだが鷲田清一がとくにおもしろそうにしていない(響いていない)のがよかった。それは別にうまくない。


ぼくは来年46になる。「最後のだだをこねる季節だ」と、自分のことを少し離れてみて言葉にする。言葉にしたとたんに、ふしぎなもので、「そんな言葉でおさまるようなことはおやめなさい」と、自分の中にいる親的存在がたしなめてくる。一念発起とか思い切った方向転換といった言葉で覆い隠しつつ実際には現実逃避でしかない数々の可能性がふわふわと想起される。それは、「最後のだだこね」なのかもしれないと、わかってしまったとたんに距離が空いて冷める、そんなこともある。生地をよくこねるのは空気を逃がすためだ。だだをこねるのは何を逃がすためなのだろう。自分の中に残った未分化な成分だろうか。