診断をするということについて考えている。
最近の医療にかんする書籍は、ケアについて書かれていることが多い。ケア最強時代だ。ケアにくらべると、西洋医学の中でも特に科学感を出してくる領域、とりわけ診断についての思想や哲学というのは(少なくとも一般に買って読めるような棚を見回すかぎりでは)弾数が少ない。
ぼくはもっと診断という行為全般について丁寧に書いた本が読みたい。なのに世の中はケアばかり取り上げる。
医学の専門書を読めばいいではないかと言われるかもしれないが、読んでいる。それでも補給しきれない養分がほしい。
治療やケアに従属しない、純然たる診断の本が読みたい。「診断はさっさと終わらせて治療をじっくり考える」とか、「診断を留保したまま実践の中で微調整をしていく」といった、臨床の手さばきからは離れた場所にある、診断そのものが本来持っている重量ときちんと向き合った本が読みたい。
たとえば、ひとりの人に対する診断だけでなしに、たくさんの診断をやる中で浮かび上がってくる、「学問のタネ」に目配せをする瞬間の、あの心の前傾姿勢をきちんと描いた本。
あるいは、疾病や病態を「名付ける」ということが治療効果や予後予測、患者・医療者の感情変化以外になにかもたらさないのかという調査あれこれ。
どこを探したらよいだろう。記号論の棚だろうか。プラグマティクスに答えがあるのではないかと考えたこともある。もしくは、機械学習論、次元圧縮の数式をきちんと読み込んだほうが参考になるかもしれない。
臨床の実践の中にすべての素材は見いだせるだろう。しかし素材が手に入るからといって料理がうまく行くとは限らない。
「統計や因果の矢印で語れない部分にこそ医療の本質がある」とか、「医者があきらめてからが医療の本番」みたいなことを、いろんな人が指摘するようになって、それはたしかに、まあそうだとぼくも思う。近代科学がある種の万能感をもって右肩上がりに成長していく過程でふりおとしてきた個別のかなしみ、それに、社会学者とか文化人類学者とか、あるいは医者がきちんと目配りをして、手を当てて(手当てして)いくムーブメントは暴風雨だ。それが進んでいくこと自体は総論賛成、各論だって賛成だけれど、医者はおろか科学者までもがコミュニケーションや手当てやケアの話にかまけてばかりいる今、デジタルもビッグデータも解像度の向上もひっくるめた「今の診断」とはなんなのかを論じた本が足りていないように思う。
ちょっとすねている。逆張りかもしれない。それでも診断のことをもっと幾重にも考えたいし語りを聞いていたい。
診断という言葉をべつの動詞を使って表すとどうなるだろう。「診る/見る/みる」はまあ、そうだ。でもそれだけだろうか。「決める」。「選び取る」。「捨てる」になっていることもあるだろう。これみよがしに「掲げる」。「はめこむ」。「そらす」もありえるか。
むずかしい軟部腫瘍の病理診断をする際、そこにある細胞を顕微鏡で見て、「まずそもそも異常であるかどうか」を考える。ただしこのときの「考える」は、かなりのスピードで終わってしまい、プロセスが意識に登り切らないことすらある。「あっ、悪い(=がんである)ね」と、瞬間的に第一次の診断をするとき、それは「考える」という言葉であらわせるほど熟慮を強いていない。動詞が違うのではないかと感じる。「みる」までもたどり着いていない。じっくりじろじろ見る前に階段の一段を登る。「やってくる」が近いか。「躍り出る」かもしれない。
「これはがんだ、それは考えるまでも見るまでもなく自明だ」と、診断が舞台に躍り出る。たとえば、臨床医が細胞を採取するときに、「病理医がなんと言おうと患者の状態からしてこれはがんであるに決まっている」みたいなケースがある。細胞を見る前に診断らしきものが決まっている。
とはいえ、慎重を期すために病理医もあらためて「それががんであるかどうか」を「考える」。このときやっていることは本当に「考える」になっているのだろうか。「捨てる」のほうが近いのではないか。
病理診断の相手である細胞に、いくつかの種類の抗体をふりかける。たとえばサイトケラチンAE1/AE3と、S-100と、LCA(CD45)。まずはこの3種類、それぞれ別に用意したプレパラートにふりかける。その染まり方を見て次の手を打つ。このとき、「染まったものを選ぶ」というよりは、「染まらなかったものを落とす」という思考回路である。
「がんである」が考える前に、見る前に決まった。次に、「少なくともコレコレナニナニのがんではない」とばさばさ切り捨てていく。
サイトケラチンもS-100も染まらなかったがLCA(CD45)だけが染まったとする。となれば造血器系の悪性腫瘍だなと「思わされる」。考えていない。「連れてこられる」。では次になにをふりかけるか? CD20か? CD3か? CD30か? あるいは、CD68か? 「選ばされる」。ここでもまだ、考えてはいないとも言える。
では病理医はいつ考えるのか。もしくは、「考えない」のだろうか。ぼくは診断が本当に考える行為なのだろうかというところから「考える」本を探す。たぶん、とうぶん、探す。