メールの前向きな効用

肝細胞腺腫(かんさいぼうせんしゅ)というそれなりにまれな病気の病理診断について、とある方から相談をうけた。

どうやって診断したらよいだろうか? どんな形態に着目すればよい? 用いたら便利な免疫染色は? 注意点、落とし穴みたいなものはあるか?

実践的な質問のかずかず。これらにメールで答え……というか私の意見を書いていく。

ミもフタもないことを言うと、答えはすべて教科書に書いてある。レアな教科書にしか載っていないというわけではなく、どこの病理部にもあるような一般的な教科書をひもとけばそこにきちんとある。

だからといって、相談を受けたときに「それは教科書に書いてあるのでそっちを読んでください」とは思わないし、言わない。

本ではなく人から聞きたいという気持ちはよくわかる。

教科書に書いてある知識を用いて自分なりに解説をこころみる。


逆の立場もしょっちゅう経験する。論文などに書いてあることであっても、その道のプロである病理医に直接たずねるとまた違ったニュアンスが得られる……気がする。病理診断においては、読んでもわからないことはいっぱいある。だからツテをたどってコンサルテーションをお願いする。


「読めばわかる」の一本刀で病理医を続けるのは至難の業だ。でも、「聞けばわかる」はよくある。


実際、自分の病理診断のレベルが上がったときには高確率で誰かのアドバイスがあった。でも「わかった気になったけど1か月もするとまた忘れた」みたいなこともあり、コンサルタントの先生方にはご迷惑をおかけしている。同じ事を何度もたずねる。1回聞けばわかるようなことはそもそも悩まない。何度聞いても腑に落ちないような、あるいは、聞いても自分でそれを使える気にならないようなことばかり悩む。だから何度も聞く。そのうちに、教わったことプラス教わったことの近くにあるものが目に飛び込んでくるようになって、なんとか自分でも診断できるようになる。何度も聞き直すうちにコンサルタントがなぜその言葉を選んだのかとか、なぜこの話はしないのかと言ったところにも目が……耳が届くようになってようやく理解できた気がする。なんとか自分でも診断できるんじゃないかという気になる。おっかなびっくりではある。


診断困難例に出会ったとき、なぜ、教科書や論文だけだと足りないと感じるのだろう。

教科書は紙面の都合上、だいじな情報をすべて載っけることができないからだろうか?

それとも、プロのもの書きではない我々医療者が書くものは、文章力に難があり、わかりづらいからだろうか?

それぞれ一理あるが一理しかないと思う。

だって教科書でわかりにくくてもメールだとわかることがあるからだ。メールも紙幅に制限があるし文章ツールであるから、その意味では教科書と変わらないはずだ。

教科書や論文とメールとでは何が違うのだろうか。



具体的な「1例」を前にしているかどうかの違い、というのはあるだろう。

教科書はどうしても論旨に普遍性をまとわせる必要がある。ただ1例のためだけに解説を書くのではなく、肝細胞腺腫ならば10例、100例、1000例と診断した結果をもとに「このやりかたで診断すればある程度普遍的に肝細胞腺腫を診断できるよ」という書き方をする。だからどうしても、そこからこぼれおちる1例ごとのニュアンスというのがある。

メールでコンサルテーションをする場合は、目の前の「1例」をもとに、個別に、具体的な、一期一会の診断技法みたいなものを開陳する。そのぶん、より細かいところまで相談することができる。


でも、たいていの病理医は、目の前の1例のため「だけ」にコンサルテーションをするわけではない。メールでやりとりするときも、心のどこかでは「普遍的な何か」を教えてもらいたがっている。

とある1例が腺腫なのか否かを判断したい「だけ」ならば、極論すれば、自分より診断経験のある人にコンサルテーションして、その人の診断意見をそのまま報告書に書き写せば用は足りる。プライドはずたずたになるが患者のためにはなる。

しかし、たいていの病理医は、その1例「だけ」診断できればよしとは考えていない。「もしこの先また似たような病変に遭遇したとき、今度は一人で診断しきれるだろうか」ということを気にする。まだ見ぬ数例、今後の数十例についてのことが気にかかる。


「この症例におすすめの免疫染色はなんですか?」と質問するのではない。

「このような症例におすすめの免疫染色はなんですか?」と質問する。

「この」と「このような」の間に差がある。


では教科書とメールの決定的な違いとはなんなのか。

たぶんだが、執筆者・著者・制作者の、「振り返って書いているか」 VS 「進行形で書いているか」という姿勢の違いではないかと思う。


病理診断の教科書の多くは、「決着のついた症例群をあとからチェックして特徴を抽出し、普遍的な診断項目を抽出しました」というテイで書かれる。さきほども書いたが、肝細胞腺腫数百例を診断した結果、この所見とこちらの所見が大事だとわかったので、みんなもこれらに着目するといいですよ、という書き方だ。

これは言ってみれば勝者の目線である。現在から過去をふりかえって、回想して、あれは正解だったな、あれはまちがってたなと採点する視線によって書かれている。

その結果、教科書では、疾病ごとに項目がわかれる。

肝細胞癌、肝内胆管癌、肝細胞腺腫、限局性結節性過形成といったように、病気の名前ごとに章立てがなされ、肝細胞腺腫を調べたい人は肝細胞腺腫の項目を熟読しなさい、というつくりになる。

しかし現実の病理診断はそうではない。

プレパラートを見る前には診断名は決まっていない。肝細胞腺腫なのか、肝細胞癌なのか、類洞拡張だけなのか、過形成性病変なのかを「これから見極める」。前向きに、進行形で、不安と期待を抱えたまま探っていく。

このとき、肝細胞腺腫の項目だけを読んでいても診断ができない。だって肝細胞腺腫かどうかわからないのだから。



内科の教科書には症候学というジャンルがあり、疾病の名前ではなく「症状」で検索できるような本がいくつかつくられている。病名が決まる前にどう動くかということに対してある程度の目配りがある。

しかし、病理診断の教科書には「所見」で検索できるものはほとんどない。病名の候補が絞られるまでの時間をどう過ごすかについてのアドバイスは、書籍の形ではほとんど残されていない。

例外的に『外科病理診断学 原理とプラクティス』(金芳堂)や『皮膚病理のすべて』(文光堂)、『皮膚病理イラストレイテッド』(秀潤社)のような、所見からどう診断を考えていくかという本もある。しかし、皮膚病理を除けば臓器ごとの各論までは手が届いていない。

消化管、肝臓、膵臓、肺、乳腺、甲状腺、子宮、卵巣、膀胱……。

これらの臓器において、「不安と期待をかかえたままいちからプレパラートをみる」ときの病理医と二人三脚してくれる教科書はほとんどない。



では誰かがそういう本を書くべきなのか? ここがじつは難しい。

書かなくてもいい、のかもしれない。これまで多くの病理医が、「疾病ごとに章立てされた教科書でがんばって診断をしてきた」のだから、病理医のスキルの中には、「回想型(診断が終わってから振り返るタイプ)の分析を突き詰めれば、なぜか期待型(診断がわからない時点から徐々に診断を組み上げていくタイプ)の仕事ができるようになる」というものが含まれているのだろう。

含まれているのだろう。

含まれているのか?

ほんとうか?

だからみんな、「教科書を読んだだけではわからず、人にコンサルテーションする」というやり方をとるのではないか?

「まだ診断がわかっていない時点での思考の進ませ方」を学ぶために、教科書ではなくメールを用いるのではないだろうか?



肝細胞腺腫の診断にかんする質問をうけたとき、ぼくはメールにこのように書いた。


どうやってHCAを診断するかというとだいたい下のような流れになります。 

1)造影態度が普通のHCCじゃないという臨床情報(ありき)

2)GSFNH的病変でないことを確認

3)LFABPβ-cateninとあわせてSAAを染色。SAAがバチバチに染まってほかが正常だったらiHCA

4)でもHCAと診断を書きつつ、ほんとうにこんなパターン診断でいいの? と不安になってCD34を染めたりHsp70Glypican 3を染めたりコンサルトしたりする

5)コンサルタントからもいいよと言われるのだが疑問が残る

6)結局診断期限ぎりぎりまで細胞を見て核所見とかに思いを馳せる


こんなことは教科書には書けない。書いてもいいとは思うが出版されないだろう。個別具体的すぎて、本を買う人の数がそうとう限られてしまうからだ。ああそうか、メール的な教科書が出ないのは、必要がないからじゃない、売れないからか……。