筋肉がすべてを解決する

医療者の教育においてはここ10年くらい、「屋根瓦方式」というのがわりとブームである。屋根の瓦がすこしずつ重なるように、指導者と教わる側の関係も、「少しずつ重なっている」くらいがよいということだ。

たとえば医師1、2年目の初期研修医を教えるのは3年目や4年目の後期研修医が適任である。ついこないだまで初期研修医だった人たちは、少し下の後輩たちが何に悩み何にぶつかっているかをわりとしっかり覚えているから、アドバイスも的確である。

同様に、5年目の後期研修医を指導するなら7年目くらいの専攻医がいい。10年選手は15年目の医師と組めば充実する。専門医資格をどう取るか、エースとして働くための心得は何か、キャリアに応じた問題意識があり、それに対応しやすいのはやはり年次の近い人たちなのである。

逆に、ポジションが離れれば離れるほど、語彙が離れ、興味も離れ、抱えている疑問にも差が出る。レベルが違うというよりもレイヤーが異なり、互いの言葉がうまく通じなくなる。

教える・教わるの関係に、端的にもとめられる要素は「共通言語」だということだろう。




話はちょっとだけずれるがぼくはここ15年くらい、「講演」がうまいとほめられてきた。多くの臨床医や診療放射線技師、臨床検査技師たちから、画像と病理の対比で招かれ、病理を専門としない人たちの前で臓器や細胞のあれこれをわかりやすく語ってきて、それをまあまあ評価されてきた。

ところが、最近、病理医を相手にしゃべる機会が増えてきたところ、これが、あんまりうまくいかない。

なんかうまく伝わった気がしない。

若い人からは、「講演はおもしろかったんですけれどちょっと難しかったです」と言われる。

「おもしろかったんですけれど」というのは社交辞令だろう。となれば言われていることはシンプルに難しい、わからない、ということだ。

けっこうショックであった。こんなに講演をしてきたのに、身内(病理医)相手だとぜんぜん語れない。

思えば、これまでぼくが講演してきた臨床医・診療放射線技師・臨床検査技師というのはみな、病理医にとっての「お客さん」であった。われわれの使う言葉や概念がわからなくて当然な人たちだ。病理のことなんてわからなくてもプロとしてやっていける人たちだ。それでも病理医を呼ぶというのは、勉強熱心だからという理由だけではなくて、なんというか、「たまには病理医の話でも聞いてみっか」という、ある種のひやかし的な側面が大きいと思う。めずらしい人間を呼んできてめずらしい話を聞き、マンネリを打破して、いつもと違う角度から自分の脳がコツンと叩かれて喜ぶのである。

そこには共通言語がないのが前提だ。だからぼくは相手の言葉を学びながら講演を作った。カタコトの外国語でやりとりをすると語彙が足りない。ニュアンスを伝えるには抑揚、リズム、身振り手振り、イラストレーションなどが重要になる。これらを駆使しながら、病理学の「表層から中層」くらいの話を躁気味に語る。

そういう講演と、「直の後輩や先輩たち」に対してぼくが「病理医であり続けること」を語るのとでは、必要とされる技能が違う。

べつにぼくは講演がうまい人間ではなかった。たまたま病理医という特異なポジションにいて、お客さんを相手にばかりしゃべっていたのが、ぐうぜんうまくハマっていて、評判が積み上がっただけなのだ。

最近は年齢も上がってきたので、病理医を目指す後輩や若手病理医などの前でしゃべる機会が増えてきた。「この方はたくさん講演をしていて評判がいいですよ」などと紹介されることもある。しかし肝心のぼくの「病理医相手にしゃべるスキル」はそこまで高くない。

困った。危機感である。「屋根瓦方式」の教育がよいと世間で言われる理由を今さら掘るのも、「もっと年の近い人どうしで教え合ってください」と言って逃げ出したいからなのだ。

ぼくとキャリアの近い、40代前半~50代前半くらいの病理医は、ぼくの「背景情報がないとわからない病理の話」をそこそこ楽しそうに聞いてくれるようである。しかし、若手を惹きつける力はない。今のぼくは診断のアンチョコ的なものへの興味があまりないし、「テイクホームメッセージ」がひとつしかない講演とか聞くだけ時間の無駄だと思っているし、ピットフォール(誤診症例)を語るなら10分では足りないと思っている(誤診の文脈と正診の文脈をそれぞれ語るなら通常の症例の2倍以上かけてほしいと思う)。こういった嗜癖はいずれも若い病理医にはピンとこないだろう。

こうして「伝わらないなあ」「どうすればいいんだろう」の話をすると、たいてい、「教育ってのはそういうものだから」「わかりづらい教え方をする教師もいていい」「いかに学ぶかを考えることは生徒の役割で、教えるほうは自分がやれるようにやるしかないのだ」みたいななぐさめが飛んでくる。

まあそうなのかもしれないけど、それはよくわかるのだけれど、それはそれとして、「やれることを淡々とやるだけです」みたいなことを座右の銘みたいに言う人のこと、生理的にきらいなんだよな。

他人とのかかわりの中に何かを組み上げていこうとおもうとき、淡々とやれることだけやってる人を見るとそこそこモヤるんだよな。

なんでだろう。肩に力入ってるのかな。でも、「淡々と」って言葉を好んで使う人、たいてい、言うほど淡々としてなくてむしろ脂っこくて執念深くて二枚舌で目線がいやらしい気がするんだよな。



話がずれたけど、今のぼくは「相手のキャリアやポジションを問わず、おもしろいと思ってもらえるような病理学の話」をするにはどうしたらいいだろうということをよく考えている。それもできれば「入門」ではない話。必要なのは共通言語? そうだろうか? ほんとうにそうだろうか? 熱量……だけではないと思うが、でもまあ熱量は要るだろう。自分が楽しくしゃべることに対して自閉的である必要もあるのではないかとこっそり思っている。あとはなんだろう。「一周回ってどう聞かれてももはや関係ないから自分のやりたいようにやる」という気持ち、これ、毒にも薬にもなると思うんだよな。どう聞かれるかは関係がある。聞かれていることで変化することに自覚的であったほうがいいと思うし、ときにはその自覚をシャットアウトする覚悟も要る、つまりは両方要ると思うのだ。

今は腹筋を鍛えて発声練習をしている。身体の部分だけはすぐに取り組むことができる。身体の部分だけしか取り組めないとも言える。先は長い。