さておく雰囲気

病理診断をするにあたって、臨床医から検体と共に「依頼書」が届く。中にはすごく熱量の高いものがある。こんな感じである。


「市原先生御机下 平素より大変お世話になっております。○○歳(未成年)○性、1か月ほど持続する腹痛と食欲低下で来院され、上部消化管内視鏡検査施行しました。前庭部から体部に多発するびらんと再生性の隆起が多発しており、末梢血で軽度の好酸球増多があることと合わせると好酸球性胃腸症が鑑別の上位に上がります。

ご多忙のところ誠に恐れ入りますが、好酸球数(好酸球性胃腸症として矛盾しないでしょうか?)のほか、ピロリ菌の有無、クローン病など炎症性腸疾患を思わせる所見の有無(例:focally enhanced gastritis, granulomaなど)、アポトーシス等についてもご教示ください。御高診のほど何卒よろしくお願いいたします。」


すげえなーいっぱい書いてんなー。思わず身構える。


そもそも依頼書の文章は短いことが一般的だ。検体にもよるが、たとえば「ポリープ 切除 お願いします」だけなんていうことはよくある。たいていの病理医は、箇条書きの依頼書を見ながら普通に診断をしている。わずかな文字から必要な分だけの文脈を読みとるのにちょっとだけ経験が必要である。たとえば、「IIc s/o」と、「IIc r/o」では細胞の見方は変わる。

さすがに情報が少ないなーと思ったら、電子カルテをひもといて記録を読めばいい。ときには電話を一本かけて直接患者の状態を聞き出せばいい。「問い合わせの電話」までのハードルを低くしておくと、診断の精度は上がる。

いろいろやり方はある。だから依頼書はコンパクトでもいい。

しかし、たまに前述のような「濃い」依頼書がくる。

熱量に襟を正す。


どういうときに熱のこもった依頼書が来るのか?

ひとつは「診断が困難」なときだ。主治医いわく、「もう病理しかない」。文字通り最終手段として頼られている。病理診断一発で、揺れ動く状況になんらかの決着を見たいという願いが、説明を長くする。なんとかしてくれ、という思い。

しかしどうやらそれだけでもないようである。

ちょっと説明が込み入ったことになってしまうのだが。

主治医が、「今回は、診断よりも所見がほしいな……」と思ったときに、依頼書の文面が長くなる傾向がある。


これは……どう例えたらいいかな……。ダンジョン飯完結記念で、グリフィンに例えることにしよう。


ダンジョンでモンスターに出会ったとき、頭や体や翼を見て「これはグリフィンだ!」と種名を確定させる行為は、病理診断と似ている。

グリフィンはキメラ生物だ。「ワシの頭」と「ライオンの体」を持ち「翼が生えている」。

モンスターの全体をよく見て、特徴的な所見をピックアップすることで、種名を確定させることができる。これはまさに病理診断だ。

ちなみに分類に必要ない部分を捨像するというのも重要である。毛が何色かとか、クチバシの色がどうかといった情報は、グリフィンとヒポグリフを見分ける上では役に立たないかもしれない。「見分け」のために必要な情報がどれかを選ぶ能力が要る。

無事グリフィンという名が判明すると、いろいろいいことがある。

ほかの冒険者に情報共有しやすい。「地下4階の奥にグリフィンがいたぞ」の一言で済む。

過去の経験を元に対処ができるというのもでかい。グリフィンなら火に弱いぞとか、グリフィンは飛ぶから注意しろといった情報が利用可能にあるわけだ。名前ひとつで芋づる式にたくさんの知識が引っ張り出されてくる。

病理診断とは名付けである。名前が付くことでいろんなものごとが同時に動き出す。それが病理診断の強みであり、臨床医がまず期待するのもそこだ。病理医は名付けという行為に自信と誇りを持っている。


しかし……。

ときに、病理医が「グリフィンだ!」と叫んでいる声をなかば無視して、「ワシの頭があること」「ライオンの体があること」「翼が生えていること」を個別に聞きたがる臨床医がいる。

いつもいつも「名」ばかりを求められるわけではないということだ。


こんな感じである。

「グリフィンなんですか? なるほど。わかりました。ところで、頭はワシなんですね。体はライオンなんですね。足は? じつはひづめではなかったですか? あっいや、体がライオンだというのはわかったのですが、ライオンのように見えるウマということもあるかなとは思いまして。ライオンとウマの見分け方はひづめがあるかどうかだと聞いておりますが、合っていますか? 今回はどうですか? ひづめはない? やっぱりライオンだ? なるほど。ではそこはライオンということで。はい。いえいえ、大丈夫です。はい。ちなみに翼はどうですか。ある。はい。わかります。翼の大きさはどうですか? 翼の大きさ。小さい? 小さいんですね。ふむなるほど。助かります。あ、診断はグリフィン? ああ、はい、それは先ほどうかがいました。大丈夫です。ありがとうございます。そうか、翼が小さいタイプの、一般にグリフィンと見られることが多い、特殊なケダモノか……」

こういうリアクションをとられると病理医のプライドはちょっと揺らいでしまう。

病理医は基本的に「名」を決着させようという立場で仕事をしている。しかし、臨床医は、「種名にかかわらず、翼が大きいなら早く飛ぶものだと考えて対処を考えなければいけないし、足がひづめなら蹴飛ばされないように気を付けて対処をしなければいけない」職業である。端的に名前だけわかれば喜ぶ職業ではない。

グリフィンかどうか決めることに心血を注ぐ病理医の気持ちが空回りすることがある。

病理医が自信をもってグリフィンだと言っても臨床医は「ヒポグリフにちょっと似たところがあるグリフィンっぽいバケモノ」というところまで踏み込んで対処したいと感じていることがある。



長い依頼書の中には、病理医の診断哲学を「さておく」雰囲気がひそんでいる。

病理医の専門性は、複数の仮説を同時に走らせながら細胞所見に重み付けを行い、症例ごとに有意性の変わる所見を取捨選択し、歴史の選択圧を乗り越えた「病名」をただ一つ与えることにある。理想的には、診断を複数思い浮かべたあと、「ただひとつの診断名」だけを残して他の可能性をすべて棄却することが望ましい。細胞にはそれが可能だと思わせるだけの複雑なテクスチャがある。

しかし、臨床医はときに、名付けの前にある情報をほしがる。名前とは違うところでドライブされる臨床論理がある。臨床医はときに、「病理医に黙ってまかせていると名前しか出てこないかもしれない」という不安を抱えている。

したがって、長い依頼文によって、病理医に「名付け」以前の所見を開示するよう求める。



そういうとき私は、主治医の手の先についている「便利な道具」に徹して、主治医が求める所見をひとつひとつ確認しながら思うのだ。

病理医のプライドも臨床医の思惑もすべて超えていくような細胞の見方ができないもんかなあ……と。

所見をくまなくチェックし、読みやすいように報告書に書き、最後に(さほど参照されないこともある)「病理診断名」をしっかりと確定させるまでのあいだ、ずっと。