枯木のエッセイ

どれくらいわかりやすく書けるもんかなあ、と思って、試しに書いてみた文章がある。それは、「病理医だけが参加する会で、ぼくとベテランとが議論になったときの話」だったのだが、書いてみてもうまくそのときの全体の雰囲気が伝わらないのでやめてしまった。どう書いてもぼくが超絶イケメンに読めてしまうし、ベテランが墓場の鬼太郎バージョンのねずみ男になってしまう。さすがにずるい。イケメン VS 妖怪の構図はまあしょうがないんだけど、超絶イケメン VS 墓場の鬼太郎バージョンのねずみ男というのはさすがに……2%くらい盛ってしまっている……。


人間ひとりが何かの立場でものを書くときの限界。

……とまで言ってしまうと、あらゆるライターに対して失礼なのでそこまでは言わない。「ぼくがひとりでものを書くときの限界」。つまりはぼくが、もの書きとしての最低限の矜持である中立性をうまく達成できていないだけのことである。

ぼくのいる視点からしか書けない。ぼくの主観しか書けない。客観的に、俯瞰して、今日の天気はどこそこで雪でした、最高気温はマイナス2度でした、みたいな文章であっても、「ぼくがその日いた場所」のことを思いながら書いている限り、完全にファクトだけの記事にはならない。

いやいやそれはさすがに、天気ならいくらなんでも大丈夫でしょ、と思っただろうか? そんなことはない。書き込んだ場所がブログだったかXだったか、インスタだったかスレッズだったかによって、受け取る人がカタマリ単位で異なるから伝わり方も変わる、それまでに書き連ねてきたものから受け継がれた文脈だって加味される。素材も調理法も同じカレーをココイチとタージマハールとロイホで提供するようなものだ。食器、調度、空調、店がそれまでに積み上げてきた歴史の力で味は絶対に変わる。昼飯に食べた料理とか直前に塗ったリップクリームによっても味は変わる。

しゃべれば声色が変わる。書けばフォントが変わる。フォントが変わる? いや、うん、フォントも変わると思う、マジで。ぼくらは活字というものに慣れている、使いこなしている、みたいな顔をしているけれど、自分の立ち位置や感情によってフォントまで変わるということを意識しなさすぎだ。そんなわけないって、変わんないって? 変わってるんだって。信じなさいよちょっとは。



雪かきを終えて周りが少し明るくなりはじめたタイミングで出勤。しばらく車を走らせていると、並木の枯木それぞれに雪がうっすらと積もっている場所があり、それらがなぜか薄いピンク色に見えて、まるで桜のようだった。運転中だからまじまじとは見ないが、それでも確かに、しっかりと薄いピンクなので本当に驚いた。信号のグリーンを見続けていたせいで、補色効果で雪がピンクに見えていたのか、それともたまたまその周囲にある街灯や朝のうすぐらい陽光の加減でそう見えたのかはわからない。瞬間よりも少しだけ長い時間、季節外れの桜にぼくは心を奪われた。それは枯木の主観が入り混じった、極めて偏向的なエッセイのようだった。