どうのつるぎとたびびとのふくと50ゴールド

学会仕事を減らし中である。ハイブリッドであれば引き受け、オンラインで出席できない仕事は断る。現地開催のみの学会で、因果応報もろもろで断れないパターンであっても、宿泊はせずに日帰りにする。飛行機のダイヤ的に日帰りが無理なときも、学会会場のある土地には泊まらず、できる限りでその場から離れる。


ウェブ連載なども12月ですべて打ち切りとさせていただいた。はじまったばかりの連載もあった。何年も続けて次の展開を準備していた連載もあった。


痛恨である。しかし、本当に申し訳ないのだが悪いことばかりでもない。前にも書いたけれど今のぼくは楽だ。仕事が減ったからだ。執筆の時間が減っただけではなく、次はどこに何を書こうかとデフォルトモードネットワークがずっと緊張していた状態から解放されたのが大きい。本を続けて読む日もある。映画を見に行く日もある。


たくさんの人に迷惑をかけて自分が少し楽になっていることへの自己嫌悪がある。けっこう猛烈なかんじである。そのせいか、あるいは単に冬だからか、肌から尋常じゃない量の水分がふきとんでしまい難儀している。顔、首、指、ふともも、頭皮などがつっぱって、化粧水やクリームが欠かせない。無意識に同じ場所をひっかくせいで容易に出血する。さすがに眼球は乾かないが睫毛のつけねが乾くのでずっと目をこすっている。

デスマッチのレスラーは有刺鉄線などで何度も傷つくと、容易に血が出やすくなり、かつ容易に止まりやすくなると、プロレスブログが何かで読んだことがある。長いことそれを信じていたけれど、医学的に考えてそんなことあるだろうか、ちょっと疑わしい。何度も傷つくとそこは不良肉芽となり、あるいはケロイドとなる。


学会に行くのをやめたのは待ち伏せされたからだ。電話もLINEも解約したのは番号が出回ったからだ。連載をやめたのは編集部に問い合わせが来たからだ。これらはすべてシンプルに「こうだからこうした」がある。一方で、Xをやめたのには複数の理由があって、自分でもなぜやめたのかと聞かれると説明が難しい部分もある。しかし再開した理由はシンプルだ。どこかにアカウントがないと、これまで一緒に仕事をしてきた人たちへの問い合わせ(例:「どこに連絡すればつながるのか」「代わりにこの言葉を届けてほしい」など)が止まないからである。




先日、教え子の中のひとりがこんなことを言った。「先生が悪いわけじゃまったくないんですけど、先生のやりかただと、勘違いする人は絶対出ますよね」。そんなもんかなと答えると、すぐに続けて「親身すぎるんですよね」という。指摘そのものにもドキリとしたが、なにより、「先生が悪いわけじゃない」という前置きをきちんと入れてくるあたりに強い配慮を感じた。気遣いのレベルがぼくらの世代とは段違いである。

思い起こせばぼくはここまで気遣いができていなかった。SNSならこの程度で十分だろうとむしろ能動的に配慮を減らしてすらいたと思う。かつて千葉雅也が書いたような、「ギャル的なふるまい」、すなわち自分の全てではなく一部分だけを用いて、コアの部分を温存したままで表面的に多くの他者とコミュニティ内で付き合っていくふるまい。そういうのがSNSには合っていると信じていた。決して自分のすべてを出すことなく、軽薄に、浅薄に、自分のすべてを使わずにやっていけばそのほうがTwitterにはマッチするだろうと、どこまでも安直で安楽であった。その結果、こちらの言うことなど一切聞いていないにもかかわらず誰よりもぼくのことを知っていると思い込んでいる人たちに追いかけ回されている。

本当の「ギャル世代/SNS重活用世代」はぼくよりはるかに慎重で丁重なのだ。ぼくのほうがよっぽど子どもだった。今はSNSの使い方をいちから学び直しているところだ。経験はあてにならない。集めた武器もすべてピント外れだ。弱くてニューゲームである。スライムやおおがらすを倒すやりかたがわからない。「ぼうぎょ」をしても1ターン無駄になるだけなのかなあ。