バートランド・ラッセル『幸福論』の話が出た後に萩野先生がブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」の歌詞をタイムラインに流した。もしや、あの歌は『幸福論』と何か関係があるのか? なるほどそういうこともあるかもしれない……と思って、「ラッセル TRAIN-TRAIN」で検索。次の瞬間表示されたのは、膨大な量のラッセル車(線路を除雪するための特殊車両)のYouTube動画であった。
カラッと笑って仕事に入る。
3日以上の連休があるとき、休日の初日に出勤して「切り出し」という作業をする必要がある。今日はその日だ。
臓器をホルマリンに漬けることで「固定」がなされ、腐敗や変性を防ぐことができる。しかしあまりに長くホルマリンに付けると細胞内のDNAやRNAがへたってしまい、タンパク質の抗原性も失われ、遺伝子検査や免疫染色などができなくなる。これを過剰固定、ないしは過固定と呼ぶ。細かいことはどうでもいいが、要は、3日以上ホルマリンに漬けるとよくないということである。
よく、博物館やマッドサイエンティストの部屋(?)などで、動物や人体の一部などがホルマリンに漬かったままビンの中に保存されているような絵面を見ることがある。あんなものはもう遺伝子もタンパクもぜんぜん調べることができない。細胞の形態自体は保たれるので(だから固定と呼ぶ)、剥製のように外見を観察するには役に立つし、プレパラートを作って顕微鏡で見てみれば何十年前の臓器であっても観察は可能だが、ケミカルな意味でしっちゃかめっちゃかになってしまうので科学研究にはあまり向かない。博物館はよいとしてマッドサイエンティストはそのへんちゃんとわかってるんだろうか。
臓器の過固定を防ぐ方法は簡単だ。「切り出し」をして病変などの重要な部分をピックアップし、ホルマリンではなくパラフィンというロウの中に封じ込めてしまえばいい。たったこれだけのスイッチで、RNAはともかくDNAはかなり長い間保存することができるし、タンパクはほとんど変性しなくなる。マッドサイエンティストだってホルマリンビンなんか飾ってないでさっさとパラフィンブロックにしておけばよいのだ。マッドだから忘れちゃったのかもしれないが。
というわけで、連休の初日には、前日に手術されてホルマリンに漬けられた臓器を切り出す。休みが終わるまで待っていると過固定になってしまうからだ。連休が一日減るがしょうがない。当直よりは楽だし、当番制でやれば個人の負担も減る。とはいえここ数年はほとんどぼくがやっている。たまに出張などでどうしても切り出しができないときは人に頼む。ぼくはもともと出張が多くていろんな人に不在をカヴァーしてもらっているから、その恩返しみたいな意味合いもある。
連休の切り出しでは、出勤ついでにメールに返事しつつ研究案件を進めたりする。平日と違って問い合わせの電話がかかってこないし研修医がプチ疑問について突撃してきたりもしないのでいろいろはかどるのである。ただ、最近は切り出し以外の仕事は控えるようになってきた。昔は土日祝日を問わずずっとパワポで講演や病理解説のプレゼンを作っていたけれど、そういうことは減った。仕事のスピードが速くなり、平日だけで作り終えてしまえるからというのが理由のひとつだが、ぶっちゃけ疲れたからだ。
代わりに医学雑誌などを読んで過ごす。ネテロ会長は祈る時間を増やしたがぼくは読む時間を増やした。医学書や論文を読むにはこういう「休みなんだけど休めない日」をうまく使うといいのだ。
ほかのジャンルは知らないが、病理診断については、文献を読んだことがあるかないかでその後の思考の幅がだいぶ変わる。○年○月のあの雑誌を後回しにしているうちに読みそびれ、何年も経って、いつも苦手にしている□□病の診断をするにあたって、何かいい資料がないかなと思って調べたら、昔読むのを飛ばした雑誌の中にすごくいいヒントが隠れていて、悩んでいたこの数年はなんだったんだとブレイクダンス的に悶絶して頭を抱える、みたいな経験を3回ほどくり返すと、読まないという選択肢はなくなる。
しかし今日読んでるやつはつまらないな。がんゲノム関連の論説って9割くらいハズレの印象がある。当たり外れで語ってはいけないのだろうけれど。ぼくの性に合わないのだろう。未来の医療のど真ん中にいるんだけどな。
栄光に向かって走るあの列車に乗っていこう。はだしのままで飛び出してあの列車に乗っていこう。それはもちろんだけど、でも、乗ったあとどうやって過ごしたらいいのだろうかということを一人静かに気にしていた。みかんでも食べるのか。車窓の向こうの電線の上に忍者でも走らせるのか。今のぼくならきっと、届いたばかりの『病理と臨床』やら『胃と腸』やら『American Journal of Surgical Pathology』やらを読んで過ごす。臓器の写真が出てくるページがあるとほかのお客さんに見えないようにそっと隠しながら読む。あるいはこれもひとつの幸福のかたちなのかもしれないが、ただ、もう少しだけ風景を写真に撮るような楽しみ方を身につけておいてもよかったかなとは思う。栄光に向かって走っているからといって栄光で停まってくれるかどうかはわからない。旅路そのものを楽しむ人間を目指しておくべきだったと悔やむ日がないわけではない。