相互換装

正月明け。家で読み終えた本を抱えて階段を登ったり降りたりしていると、足首がだいぶ固くなっていることに気づいた。一切どこにも出かけずに本ばかり読んでいたのでしょうがない。腹回りも少し緩んだ。体重も1キロほど増えたけど、70キロ弱の体にとっての1キロなら水分量の誤差で済ませてよいだろう。ここから数日働きながら体を戻していく。


タイムラインにそれなりの頻度で書き初めをしている人がいらっしゃることにおどろく。大人の書き初めとか、大人の水彩画とか、大人の版画とか、そういったものをなさっている方を見ると、ああ、人生を広げているなあと思ってうらやましくなる。今年は年賀状に返事を書かなかった。もうこれで一生書かないだろう。あああ。勇者ああああ。


職場においてあるNintendo Switchの充電が切れていたので充電器に指す。スマホと同じジャックを使えるので、デスクの端に常時伸ばしているケーブルを使えばいいから楽だ。なんでも互換する時代である。PCのデータをスマホで見ることができるし、地下鉄にもJRにも同じSuicaで乗れる。そうやってさまざまなボーダーを低くして、2秒ずつもうけた時間を貯金して、極めて不親切な哲学の本を読んで消費する。なぜここまでわかりにくく書かなければ伝えられないのだろうかと疑問に思わなくもないが、このわかりづらさのおかげで息をしている人たちが、これまでに何万人もいたのだから、見事というほかはない。


互換すればいいというものではない。いいい。勇者いいいい。


「周囲と自分とが互換しない場所」というのも、ときに必要だと思う。10代の頃から思っていたので、我ながら、いわゆる反抗期かと思っていたけれど、どうもそういうことでもない。なんでもかんでも横に繋げられるとしんどいのは今でも変わらない。言語の目的はコミュニケーションだと堂々と胸を張って言われると鼻白む日もある。言語がないと思考できないという考えかたもそこそこ横暴ではあるが。


今のぼくは10代のときの自分の心とコミュニケーションする術をもたない。その意味では、かつて恐れていた「自分は将来どうなっているのだろう」という懸念、あれはピント外れだったし、根源的でもあった。「昔のぼく」はもうわからない。今のぼくは昔のぼくと互換していない。ACアダプタの種類が変わる程度の断絶で、昔のPCを気軽に起動できなくなる、それとおなじだ。


年末読んだのは言語や名付けに関する本が多い。『知覚の呪縛』(渡辺哲夫)、『「名づけ」の精神史』(市村弘正)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(中村昇)、『続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門)』(中村昇)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(谷川嘉浩)、『ポストモダン●ニヒリズム』(仲正昌樹)。ときどき値落ちしながら読み終えた。1月3日、読む本がなくなり、そういえばこれがあったなと、11月に買ったテッド・チャンの文庫本『あなたの人生の物語』に手を付けた。SF系の短編集。ところがなんと表題作がまんま言語学にかんする話なので笑ってしまった。互換するときはする。