除雪アラウンド

まとまった量の雪が降るとわかっていたので、就寝前にアラームを1時間半ほど早くした。目が覚めると思った通りの景色であった。1時間ちょっとで終わるかと思った雪かきは、ポッドキャスト1本分ではまるで終わらず、10分番組をひとつ挟んでもまだ終わらなかった。明けの明星が見え、周囲が休息に明るくなっていく中、未聴のポッドキャストがなくなったので音楽に切り替える。サカナクションは冬の朝にぴったりだ。イヤホンから音が漏れない程度の爆音がいい。冬の朝、遠くから聞こえる除雪機の音をぎりぎり消すくらいがちょうどいい。

ベンチコートの中が熱気で蒸れる。フードを脱いでチャックを少し開けると、とたんに耳周りや首筋に冷気が直撃する。フードをかぶったままだと髪の毛がぺちゃんこになってしまって、このあと出勤するときに面倒だ。それに、最後は少し顔を冷やすくらいでないと、室内に戻ったときに汗が止まらない。とはいえ、いくら体が温まっていても、このまま10分もすれば凍える。「湯冷め」にならないぎりぎりの頃合いを見計らうのが肝心だ。

「雪かきでは決して痩せない」と言ったのは数年前のぼくである。これだけ汗をかいてもたいしたカロリー消費にはならないのが不思議といえば不思議だ。

除雪作業に必要なのは筋力ではない。20年前のぼくよりも今のぼくのほうが確実に雪かきは上手だ。丁寧だし、何より早い。腕も足もふにゃふにゃで、一度に運べる雪の量は以前の2/3くらいではないかと思うが、それでも早い。子どもと大人では箸の使い方にだいぶ差があるように、20代と40代ではスノーダンプの取り回しに差がある。脊髄より下位の神経や筋肉が適切に連携を取っているぶんうまくなっている。いくら脳にノウハウを入れてもたぶん成人直後ではこのような動きはできないだろう。

もっとも、みもふたもないことを言うと、自己肯定に必要なのは筋力なのだ。どれだけうまく家の周りの雪をまとめて動かして山にしても、弱々しい筋骨の仕事はどこか控えめでナヨナヨしていて、いくら家族にほめられようが「春が来ればどうせ溶ける」という徒労感にじわじわと抱きしめられる。俺は俺の筋肉でこれを為した! という喜びでもあれば話は別なのだが。経験でこなすことのデメリット。半自動的に体が動く作業では、能動性が失われて達成感も半減する。やはり筋肉が正義なのだと思う。ぼくは悪である。

「最低限の興奮でなんかうまいことやる」という、居合道の達人みたいなスタイルにあこがれる人間が、ことのほか世の中に目立つけれど、ぼくはそういうのは特に信用していない。「スッと抜ける快感」が一番気持ちいいなんてことはあり得ない。ジグソーパズルでピースがぴたっとハマったときの快感よりも、「いつでも復元できるスイッチがあるから好きにしていいよ」と言われてどでかい花瓶を叩きつける快感のほうが純粋に大きい。まあそんなスイッチはどこにもないのだが。

あらかた雪かきが終わったら、車の窓についた氷をガリガリと落とす。昨晩、帰宅時の車の余熱で、夜に降った雪がいったん凍り、それがふたたび氷結するからしっかり落としておかないとワイパーごときではどうにもならない。車の全周をまわってガラスの氷を落とし、スノーシャベルで車の周りの雪をふきとばして、ふと顔を上げると玄関前の雪にまだ手を付けていなかった。曲順はアルクアラウンドで、Spotifyは今のアルバムを聴いていたはずなのにいつのまにか昔のアルバムにぶっとんでいるから迷惑だし、これくらいのランダム性があったほうが結局いいのかもしれないなと無課金のひとりごとに興じる。だいぶ明るくなってきた。早く出勤しないと道が混む。