「周辺の雰囲気」を使って診断することがある。なにかを病理診断するにあたって、ある病気であることを決定づけるドンピシャの細胞像が見つからなくても、診断をあきらめなくていいということだ。
プレパラートに癌細胞が見つからなくても、「あれ……この間質のふんいき……近くに癌細胞がいそうだぞ」とピンと来るかどうかが重要である。プレパラートに乗っているのは、向こうが透けるほど薄く切られた4 μm厚の切片だ。技師さんに、「もう一度プレパラートを作ってください」とお願いすると、技師さんは組織片をあらためてカンナのおばけのようなミクロトームと呼ばれる装置で切って、次の切片をガラスの上に乗せてくれる。たかだか4 μmの差とあなどるなかれ。ミクロトームで組織を切るときに、面をならすようにシャッ、シャッと粗削りをすることで、組織片は少しずつすりへっていく。この数十μm~百数十μmのずれが、新たな風景を見せてくれる。
癌細胞の少し横を切って観察しているときに、「この奥に癌細胞が潜んでいるかもしれない」と考えられるようになったら中級者だ。勘を研ぎ澄ませる必要がある。そして、勘に理屈を並走させるとなおいい。
癌細胞が浸潤する場所では、癌の周囲に間質が誘導される。多かれ少なかれ、癌細胞の周りに変化が起こる。露払い的な変化と言ってもいいし、場のひずみのように見えることもある。癌細胞は浸潤・進展の際に、周囲にサイトカインなどを分泌し、間質に変化を起こしてみずからが生き延びやすいように環境を整える。「がん微小環境」と呼ばれる一連の変化は、かならずしも顕微鏡で見極められるとは限らないが、雰囲気の違いとしてなら感じ取れる。
どことなく、普通の間質よりも浮腫が少ないな……。
なぜ、この部分だけ血管の走行が変なんだろう……。
本来ならば等間隔に粘膜の成分があるべきなのに、このへんだけすかっと空いているのはなぜだ……?
どうしてこの周りだけ炎症細胞の密度がおかしいのだろう……。
線維芽細胞の雰囲気がちょっと違う……?
こういった違和感をとらえる。「癌じゃないなら関係ねぇや」と見過ごしてはだめだ。これまでに見てきた癌の「周り」にどんなことが起こっていたかをあらためて思い出す。そして手を打つ。標本を作り直す。そうやって見つける
「ウォーリーを探せ!」では、ウォーリーの周りにたいてい、眉をしかめた女の人と片眉を釣り上げた男の人がいる、と聞いたらあなたは驚くだろうか? 仮に、絵本のページにコーヒーをこぼしてウォーリーが見えなくなっていても、周りの人をチェックすればおのずとウォーリーの居場所がわかる……みたいな感じだ。
(※ウォーリーのとなりに決まった女の人や男の人がいるというのは、でまかせです。)
むかし、ある皮膚病理診断の達人に、コレステロール塞栓症という病気の診断を教えてもらった。「コレステロール塞栓症」という名の通り、皮下組織の小さな血管の中にコレステロールが詰まって、血流が途絶えて、皮膚が障害を起こすという病気である。最初に顕微鏡を見た私は、
・皮膚に障害があるなあ
・炎症はまあふつうだなあ
・血管はなんともなさそうだなあ
という感じでばくぜんと顕微鏡を見た。しかし、後に見た達人は、こう言った。
「血管には何もなさそうには見える……んですが……この、検体のはしっこにある血管、ちょっと壁が厚くないですかね?」
ん? まあそうかな。言われてみればそうだな。でも詰まっているというわけではないんじゃないかな。
「そして、周りに好酸球がいますよね。」
ん? 好酸球? それがなにか?
「好酸球って、コレステロール塞栓症のときに、なんか周りをうろちょろするんですよね。だからこの切片、切り直して、あとEVG染色も加えてみましょう。」
私は半信半疑で言われたとおりにした。はたして、切り直した切片にはコレステロール塞栓症とぎりぎり診断できるくらいの、わずかな血管変化が出現した。私はびっくりしてしまった。コレステロールが見られないのに、コレステロール塞栓症って診断できるのか!
「まあ……コレステロールって……標本上だと溶けて流れちゃいますからね。周りを見ないといけませんよね。」
私はそれ以来、「ご本尊」がなくても周りになにか、露払い的なものが見つかっていないかをきちんと探そうと心に決めた。決めたけど……まあ……たまに忘れるけど……なるべくがんばって思い出すようにしている。毎日、顕微鏡の電源を入れるときに、「まわりまわり。」「雰囲気雰囲気。」と唱えるようにしている。なおこのとき、同時に、「メラノーマメラノーマ。(※診断が難しい病気。毎朝となえて見逃さないように心がけている)」「Epithelioid hemangioendothelioma epithelioid hemangioendothelioma.(※診断が以下略)」「TFH TFH(※診以下略)」などとも唱えている(ほかにもある)。