診断関係リセット症候群

理論を学び経験で微調整する。そうやって診断の道程を歩む。

主観的すぎる診断はぐらつく。直感や反射だけでは取りこぼす。だから理論は大切である。骨格がしっかりしていないと歩けない。

とはいえ、すべてを構造化してくまなく箇条書きにすればよいのかというと、それはそれで物足りない。客観の骨に主観の筋肉を添えないと、診断は言葉になりきらず、臨床は孤立する。

体幹と四肢それぞれを鍛えてトレイルロードを歩く。理論と経験の統合。


広い守備範囲を目指すと深掘りが苦手になる。かといって一箇所ばかり掘っているとパノラマな絶景を見逃す。ジェネラリストすぎてもだめだしスペシャリストすぎてもいけない。俯瞰と接写は交互に。歩いている最中にどこを見通し、どちらに向かって歩き、どこで立ち止まりまたいつ歩き出すか。


スマートにはたらきたいけれど泥臭さをなくしてはいけない。ただしひたすらコツコツ歩いていれば十全かというとそうでもない。飛躍しないと渡れない川がある。しかしジャンプばかりでも転倒する。コツコツ朴訥でも美談にしかならない。


困難があり面倒があり、この仕事をしろと言われて眉をひそめる人がいる。だからこそ、この仕事を続けることで給料が発生するのだと思う。人の嫌がることをすすんでやると暮らしていける。ただし人が嫌がっていること自体が勘違いだと思うことはある。


これまでに遭遇した失敗の数々は、思い出のテクスチャをざらつかせる。しかしそれらのざらつきを把持することで今の診断の安定感が高まる。困難をロッククライミングにたとえるならば、失敗のざらつきに体重を乗せて切り立った岩壁を乗り越えていくようなイメージがある。失敗に対して、申し訳ないという気持ちがまずあるけれど、それだけではなくて感謝がかなりあるし、頼りになる手がかりだと感じていることもある。


自分の中に組み上がった診断回路には穴も抜けもあり、過剰だったり脆弱だったり偏っていたりする。しかし心配には及ばない。仕事で交わった他者が私とは違うネットワークを持っていて、私のそれと他者のそれとが交歓することで、環境により適した形状に変化する。網目構造が、自分の脳神経を超えた分散を示す。それでカヴァーされる。それが網羅につながる。

疾病や医療システムといった、非人格的な、あるいは無機の構造もまた、接続不可避のネットワークである。診断を続けるうちに、他者と交わるだけでなく、病理学とも交わるし損益分岐点とも交わる。私はネットワークの中でいつしか移動を繰り返し、自分がゼロ・ポイントであるような古典的な座標軸のイメージから解き放たれて不安=自由を手に入れる。


以上のような、知的運動の修得の過程は、あたかも「いいことづくめ」のように思える。理想論的ですらある。しかし、実際には当然のことながら、すごくいろいろ間違える。

体幹が弱いまま筋トレをしたり、ピント外れの筋トレをしたりすると、腱やらスジやらを痛める。それと同じで、不適切な理論や経験によって診断も歪むし傷がつく。右肩上がりに上達していくわけではない。間違いながらでこぼこ上がっていく。だから間違いを間違いと判断する能力が別に必要である。

しかし診断という行為においては、そもそも「どれが間違いか」を見極めるのがむずかしい。間違いにすぐに気付けるわけでもない。間違いが間違いとわからない状態は怖い。誤った筋トレを続けることで、少しずつ自分の体幹が歪んでいく。本当によくあることだと思う。

病理診断は「ゴールド・スタンダード」と言われることが多いが、それはつまり「誰も文句をつけられない」という意味である。病理が間違えていたことに気づかせてくれるのはいつも時間であり、基本的に他者ではない。何年も経って、「あの診断はやはりおかしかったのではないか」というように、半ば手遅れ的に診断の不備が指摘される。ちなみに、そうやって指摘できるのはむしろラッキーな方かもしれず、多くの場合はあとから振り返っても、その診断が「間違えていた」のか、「合っていたけど特殊な経過をたどった」のかは判別できない。

極論するならば、「正しい診断」をくだすよりも「正しいと思っていたが実際には不適切だった診断」を探し出すほうが技術的には難しい。自らが接続しているネットワーク全体に「必然的に間違う構造」が練り込まれていることもあって、「自動的にぶれの少ない間違いが量産される」こともある。それは現代医学の限界などと呼ばれて免責されることもある。しかし、こと、病理医は、ネットワーク全体の瑕疵に気づくべきポジションなのではないかと自戒する。身内に厳しすぎるだろうか?


臨床医たちとのネットワーク、学会におけるネットワーク、学術活動で開いたネットワーク。複雑に癒合して生成変化を続ける曼荼羅の中で闊達に振る舞うことは難しい。都会の一方通行だらけの交差点で、2ブロック先のビルに行きたいだけなのにタクシーがいつまでも左折や右折を繰り返してなかなか目的地につかないかのように、網目の中ではしばしば自分の思うとおりの動きができない。しかしそこで「人間関係リセット症候群」を発動させてしまうことはもったいない。曼荼羅は圧であるし抵抗である、しかし、それらから解き放たれて「自分がゼロ・ポイントであるシンプルな座標軸」に戻ったところで納得のいく診断などできるはずもないのだ。SNSをぜんぶやめてまた戻ってくるのとはわけが違うのである。リセットしたってどうせまた飛び込んでいくしかないのだ。