がんばりました

成瀬の聖地である大津に来たが今のところそんなに成瀬成瀬していない。もっと等身大のポスターとか顔はめパネルとかあると思ってたのにな。成瀬はおもしろいからみんな読んだらいいよ。あれは長めの教科書だと思う、偏って胸を張るタイプのすべてのまっすぐな思春期にきちんと刻印されるべきよいテクストだと思う。

さて、滋賀県でのお仕事だが、放射線科医相手にしゃべるのはいつも緊張する。私はおそらく、病理医として、放射線科医を「リスペクト棚 」のかなりいいところに飾っている。だからそこに向かってしゃべるときはいつも全力以上のものを出さなければいけないと奮い立ってしまうし、なんなら、病理医が見ているものだけでは放射線科医たちは満足しないのではないかと、いつもある種のあきらめみたいなものを感じていて、しゃべり終わるといつもなんだか「負けた」という気持ちになる。勝ち負けではないのだとしてもこの「負けた」が、青春とは異なり終わりのない中年の人生にとってとてもいい刺激になるのだ。

それと、これは本当に卑屈とも傲慢とも違う達観みたいなものだと思うのだけれど、我々(放射線科医と病理医)は、最終的にはうまくマージできない、水と油なのだろうな、という確信みたいなものがある。だからこそ、互いに臨床に対して無二の存在感を示し合う。結婚はするのだけれど必ず離婚する、でも、一生忘れられない、前世からの腐れ縁みたいなめんどくさいカップル関係に似ているのではないか……ということをわりと本気で考えている。


というわけで放射線科医相手の講演が終わった。とても疲れた。あいかわらず時間どおりに話が終わらない。落語家とか講談師のような、練りに練ったストーリーテリングの才能があれば、これだけナラティブな語りでも時間どおりにきっちり収めることができるのだろうけれど、私はどうもはみ出てしまう。はみ出て、余計なことをたっぷり語り、本筋が脇道によって塗りつぶされてしまう。正ヒロインがモブによってかすんでしまう。そういうしゃべりだ。反省は多い。思わずPCを開いてしまった。がっくりとしている。がんばったんだけどな。不完全で、未熟。不格好で、無骨。だからこそ、なんだかへんなやつだなと思って覚えていられる、あるいは印象だけ残して内容は残らない。しかしまあ何度も呼ばれるのだ。それはありがたいことだと思う。でも果たして、予想を裏切り、期待は裏切らないような講演をできたかどうか。なんだかもう、よくわからない。印象には残るが記憶には残りきらないという、いまいちな講演者。あーつっかれたなあー。


市原先生って、ヤンデル先生ですよね! あの! なんか聞いたことあるなあと思って検索したら出てきましたよ! アッハイ……ソノ……ドウモ……。懐かしい匂いがした。海辺の花時計。情報交換会中ってもっと、食べれると思ってた(ケータリングを)。私はずいぶんあちこちで目立ってきたから、今こうして、ひかえめに、やれることをやっているだけの人間に戻ったつもりでも、呪いは消えないし、咎は浮き出るし、SNSは私をいいほうにいいほうにどんどんひっぱっていく、もう何もやっていないに等しいんだけどな。15万人以上いたフォロワーもちりぢりになってしまった。でもあいかわらず、学術講演をすると、そこにはかつての私のフォロワーや、かつて私がやった未熟で不格好なマグマみたいな講演を聞いてなんか変なものを感じ取った「私の同類」みたいな人たちが、話しかけてくれる、名刺を受け取ってくれる。そういうのを見ながら私は、ああ、もっともっと、うまくしゃべれるようになって、病理学の、形態学の、背骨をわしづかみにするような、そういう講演をできたらいいのになと、頭を抱えて枕をかかえてベッドをかかえてぐしゃぐしゃに握りつぶしてびわ湖大津プリンスホテルの従業員にやめてくださいとなじられることになる。

食道はどうした

『胃と腸』という雑誌があって、小学生くらいにこの雑誌の話をすると40%くらい爆笑され、60%くらい「は?」って顔をされるのだけれど、これを毎月読んでいる。内容はときどきおもしろい。わりとつまらないこともある。とっくに知っている話もあるし、なんだか古いなって感じる話も載っていることはある。でも、毎月読んでいる。執筆者たちの1/3くらいは、顔と声が一致する感じなので、読んでいると勝手に音で聞こえてくる。

原稿はいわゆる「依頼原稿」だ。体裁は論文なのだが、編集委員とよばれる人たちが、すでに何かを成し遂げた人や、その弟子たちに、立場と原稿料とを渡して、その業界のトピックスを書き起こしてもらう、というものなので、査読が入るとはいえ学術論文とはちょっとニュアンスが違うように思う。

口さがない人々には、「日本語総説なんて読むだけ時間の無駄」と言われたりもする。ただ、「消化管を専門とはしているけれど、消化器内視鏡医でもないし、外科医でもない人間」である私にとって、母語で隣の領域のニュアンスを定期的に「語られる」場があるというのはありがたい。「事実」(笑)を知るのは大事だが、「事」が実際にどのように語られているのかを知るのも大事なのではないかと思う。


というような私のスタンスは過去にも書いたことがあるのだけれど、今日はこれを前置きとする。胃と腸を読んでいたら気になる記事が出てきた。重症の大動脈弁狭窄症(心臓の出口のひとつが狭くなる病気)を持っていると、胃腸からじわじわ出血することがあり、心臓の治療をすると胃腸の出血もおさまる、というのだ。

https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2023/10/press20231019-01-catheter.html

2023年の記事だから、たとえば心臓畑の人とか、消化器内科医などはとっくに知っている話なのかなとは思う。しかし私は知らなかった。病理医は手術や検査などで「とられてくる身体の一部分」を見るのが仕事の大半であるが、その一部分というのはすなわち「細胞」のことであって、血液とか画像とかはあんまり見ない。だから、心臓の調子がどうとか、血管の出口(だか入り口だか知らんが)の狭さがどうとか、血液の濃さがどうとか、中にふくまれているホルモンやサイトカインがどうとか、生化学的検査がどうとか、血が出て止めましたとか、傷がひらいて閉じましたみたいな話をあまり通過しないまま日々を過ごしている。だからこの、「心臓の病気をもっていると胃腸からじわ出血する」という話には、日頃まったく関わることがなかった。

心臓と胃腸だ。関係あるといえばある。それはそうだろう。胃腸だって血がめぐっているのだから。しかし、心臓の出口に異常があると胃腸から出血するというのは、私にとっては、たとえて言うならば、「首都高で渋滞が続くと群馬県の農村でバイクが田んぼに落ちる」みたいなニュアンスなのである。そこはさすがにつながらんでしょ、というくらいの精神的な距離がある。


話をじっくり読んでいくと、心臓の出口の部分で交通渋滞が起こるとき、止血の機能がそこで異常にはたらいてしまって、血中のフォン・ヴィルブランド因子がたくさん消費されることで、全身の出血傾向がじわりと上がる、という話がまず出てくる。でも、それだけで話は終わらずに、小腸などの粘膜に「血管異形成 angiodysplasia」と呼ばれる異常な血管がたくさんできてしまうというのだ。ここが、スッとはつながらない。さきほどの例え話でいうと、「交通課の警官が首都高にたくさん駆り出されて人員が不足すると、田舎の農道の舗装がおかしくなって獣道がたくさん増える」みたいなことになっていて、えっ、それは警視庁交通課の管轄じゃなくて国土交通省じゃないの? と疑問に感じる。


研究は当然今も進んでいるし私はそれ以上の話をまだフォローアップしていないのだけれど、血管というのはけっこうホットな話題である。世界的にはずっとホットなのだろうが、私、あるいは病理医にとっては、この10年で急に盛り上がってきた話題なのだ。なにせ、血管というのは顕微鏡でみるのがむずかしい。塊状のものはナイフでカットして断面をみるといろいろ情報が増えるのだけれど、糸状というか管状のものは、ナイフで切ると「輪っかになった断面しか見られない」のでかえって情報が減る(気がする)。まして、血管がにょきにょき伸びたとか縮んだとか分岐を増やしたみたいな話は、断面の観察では一番検討がしづらい話題なのだ(盆栽の枝の美しい張り方をしらべるのに、枝を切ってはしょうがないだろう?)。


なにをいいたいかというと、私はぶっちゃけ、病理医という立場で、心臓関連の話題にたくさんの労力を注ぎ込もうとはあまり思わないし、消化管の病理は得意だが消化管出血は「私とは関係なく臨床医のみなさんがんばってください」という立場であった。しかし、こうして、2年半以上遅れてではあるけれど、そういった「あまり自分が明るくない領域の話」を斜め読みすることで、「あっこれ俺も興味あるな!」という、心の中で興味がじわじわ育つような体験をできているのはひとえに、「日本語の総説で、自分の興味が微妙にかすりそうでかすらない領域の話を気軽に読める」からなのかなと、まあそういう言い訳をしながら、本当はほかにやるべきことがたくさんあるのに今の自分と直接は関係しないような話の書かれた雑誌をもくもく読んでいる。

御家老

登壇の依頼があり、断りたいと思った。しかし恩人からのオファーである。これまで論文やシンポジウムなどでさんざん世話になっており、ここで断るのは筋が通らない。ほんとうは別に予定が入っていたのだけれど、その、別の予定のほうをリスケジュールして、登壇を引き受けた。それはよかった、と書かれたメールに、発表の時間は12分くらい、とあり少し体から力が抜ける。まあそれはそうなのだ、ふつう、学会というのはそういうものなのだ。しかしこれに登壇するためにほかの予定をわきにずらして飛行機で日帰りするかと思うと視野の時間分解能が低下する。いまさらぐだぐだとあれこれつぶやいても詮無きことだけれど、よく考えると、そもそも私の仕事はすべて恩人からのオファーなのであり、仕事をくれる人にはみな大恩があるのであって、「恩があるから断れない」というならそれはつまり「仕事は断れない」という意味になる。三宅香帆のベストセラーをずたずたに破って石狩川に捨てるような振る舞いだなと思う。正月に傷めた腰が不気味な音を立てる。

語られ尽くしてきたことかとは思うが、現代社会は、いろいろ回って回りすぎて「逆に」、仕事ひとすじに人生を投じていきたい人間に対するケアが足りない。いや、違うか、こちらからケアなんぞ要るかとかなぐり捨てて好き勝手な暮らしをしているのだから今更そんなダブスタなことは言ってはいけないのだろう、でも、ケアまではいらないにしろ、「瞬間的な手当」くらいはあってもよいのではないかと思うのだけれど、私は少なくともこうして仕事に全振りした生活をしている間、ずっと、なにかにマイルドに怒られ続けている。「そんなやりかたで辛い目にあったって自業自得だよ、だってワークライフバランスでワーク=ライフにすればバランスは完璧とか言ってきたでしょ、それでいまさらライフがしんどいって言ったってそりゃだめだよ」みたいなことを延々と言われ続けている。「わかるよ、休みたいよね」みたいな優しさは世に満ち溢れているのに、「わかるよ、働きたいよね」のひとことはめったに見ることがない。今も思わず指先のAI自動運転によって紡いでしまった言葉だけれどまさに「自業自得」ということを言われて言われて言われすぎて、もはや自業家の長男の自業ジトクです(SFマンガではっきり日本っぽいネーミングなのに下の名前だけカタカナにすることで安直に未来感を出そうとする私のわりと嫌いなスタイル)。

編集部から心配をあらわにしたメールが届いた。原稿は大丈夫ですか。ずっと働き続けているのに進捗が進んでいないのだからもはや絶望するしかない。こっそり遊んでしまっているならばまだ進捗を取り戻す算段も付けられたのだが。ああ、私は、ここに及んで、もっと遊んでおくべきだったなあと後悔する、もし、もっと遊んでおけば、今こうして原稿の催促が来たとして、遊びをうっちゃらかして仕事に全振りすることで原稿をすいすい進められたはずなのに。

おしょうかつ

腰がピキとなってしまい横たわっている。モルックはよくなかった。バドミントンはもっとよくなかった。根本的に運動不足であり、なにもかもが撃鉄になり得た。身体は不自由で、不如意で、心は身体に牽引されているから、散歩の下手な犬の飼い主のように、引きずり回されて靴の踵を減らしている。酒を飲んでも90分くらいで眠くなってしまうかと思うとあまり酒に集中できない。飯を食っても25分くらいで眠くなってしまうかと思うとあまり飯に集中できない。 

仕事以外のなにもかもに対する持続力を失っており猛烈に老いを感じる。

強い風が吹いていて、上空を細切れになった雲が滑るように飛び散っていき、その更に上で腹を銀色に光らせた航空機が雲のハードルを越えていくかのように視界を横切っていた。泉質、ナトリウム・カルシウム‐塩化物、と書いてある。それってつまり塩と石灰ではないか。海水が地下水と混じればだいたいそのへんの物資は必ず入るだろう、つまり、この温泉には、温かい以外のとりわけてなにかがあるわけではない。硫黄もなければ炭酸もない、そんなただの湯に漬かって私は仕事をやめる直前に行ったキャンプのことを思い出していた。中学のときの同級生は、私をゴルフに誘いつつ、私が転職をすることを止めるでもなく応援するでもなく、なんとなく他人の距離感で感想を述べてくれていて、私はそれがまるで、温まった地下水に過ぎない温泉のように心地よく感じた。心地よい、とはなんとも不思議な言葉だ。心は地についてはじめて快となる、という説得力がにじみ出る。


猛烈な風がすべての雲を吹き飛ばしたあと、空は夕陽の受け皿を失って、赤くなれずに急速に黒の階調を高めつつあった。小括が終わればまた仕事。飲み干せば酔って眠くなる、それが悲しくて、思わず叩きつけたエールビールの小瓶にパキと日々がはいった。

めちゃくちゃたくさん飯がデリダ

ライプニッツってすごいよな。名前にプニッが入ってる。SNSみたいなことを言うね。暮らしが文字でできてるタイプのこと言うじゃん。なんとなくそういう会話を文字でやった。飲み屋でやったらだいぶ厚みのある話になったんだけど、残念ながら、私はもう、飲み屋で雑談をする習慣というのを失ってしまったので、たまにこう、DMなんかで、みずからのDIP関節より先の部分の人間性だけでやりとりをして、送信も受診もじぶんの背骨には近づけない、みたいなタイプのコミュニケーションだけをして日々を楽しく暮らしている。

教え子のひとりからひさびさに連絡がきて何かと思ったら「年末年始、札幌にいるんならうちらが働いてるガルバに来い」みたいなお誘いで、勘弁してくれと思った。なんでこの年になってガルバルディβのメンテナンスをしなければいけないのか、意味がわからない。ひとまず返信をする。「お若いの それをしまってくれんか 私にはまぶしすぎる(ラピュタ)」。するとすかさず返信がくる、「なにそれぜんぜんわかんない」。Zガンダムはわかるのにラピュタはわからないのか。まったく、最近の若者はなんでも縦割りSNSだからな。



文字の中で醸成されていく思考を見ていると、日本国内でいちばん高い山が富士山、みたいなことを考える。山の高さというものは、私の理解の限りでは海面からはかるはずだが、それは世界の8割を海で浸してならしているという前提があって成り立つものであって、たとえばこの地球の水分をすべて干上がらせたとしたら、山の高さはおそらく地球の重心から測定しなければいけなくなるだろう。すると果たして富士山というのは日本で一番高い山になるだろうか。まあ、低い山にはならないと思うが、地球のコアから正確に線を引いてはかると意外と穂高岳とか槍ヶ岳あたりも富士山とたいしてかわらない、誤差範囲くらいの標高になってしまうということはないか。ていうかそもそも日本という境界がわからなくなるんだった。韓国も中国も、台湾も香港も、北方領土も、指で点字を撫でた程度の凹凸としてすべて包括されてしまう。そしたらカンチェンジュンガと富士山とを地域でわける意味がなくなる。ていうか、ヒマラヤ山脈なんて、球体の表面を手作業でレンダリングしたときのトーンのシワ、ずれて寄ったひずみにすぎなくて、それが一番高いと言われても、うーん、まあ、そうかもしれないけど、この程度の差なんだなあ、ていうか新しい地球買ってもう一回表面を貼り直したら? スマホの保護シールみたいにさ、なんて、だんだんどうでもよくなるんじゃないだろうか。文字の中で醸成されていく思考を見ていると、海を干上がらせた地球を対置させたくなる。海面あっての、表面だけの、いちいち領域を狭く囲った上での、微細な高低差、それを意味だとか差延だとか言っている。滑稽とは言わないが、しかし。本当はもっと、地球の内部に傲然たる体積と熱があるように、思考の内部に無形だが無味ではないなにかがグルドロとうずまいているのではないか。そこにダイブしないと巻き込まれないような意味の奔流がある、それを放ったまま、なにを薄っ皮の部分でぐだぐだやっているのかと、舌打ちなどしたくなる。


実家で過ごしていると飯を食うわけだが、飯がいつまでもある。私が普段、米を炊き、汁物を用意し、魚をやいて、レンチンキャベツや玉ねぎの上にキムチをのっけて、15分くらいで食べ終わる「バランスのよい夕餉」なんてものは、表層をなぞっただけの飯なんだなということを、考える。朝・昼・夕と3度にわけて食する、たくさんの野菜が圧力鍋で煮込まれた汁。主菜1,主菜2,主菜3,パンとご飯とどっちがいい? でもどっちも出すね。タマゴ。タマゴ。かりんとう。りんご。シュトーレンがうますぎて2回買ったんだよ。食材自体はどこにでもあるものだ、食費もそこまでかかってはいない、むしろ質素とも言える買い方で間違いがない、しかしそれらが、熱を通され、湯をくぐらされ、互いにディップしあうソースとなりボディとなって、渾然一体として、1時間も2時間も、会話をふりかけながら延々と続く食事、というよりもこれはもはや、生活時間の凹凸を咀嚼によってかみしめていると言ったほうがいい、そんな「飯がいつまでもある」状況を見て、私が普段、単身赴任の部屋でひとり作っている食事なんてものは、何品目あろうが、どれだけカロリー計算していようが、所詮は文字にして理解しただけの「浅くペラい食事」でしかない。