ゆくすえを振り返る
脳だけが旅をする
そこで懐ゲ脳
ちかごろは、「残務処理」and「ものすごく未来の仕事の先回り」がメインとなっている。これはつまり現在にかかずらっていないということだ。
残務処理の例として、たとえば「他施設の病理医にコンサルテーションを依頼したがそれっきり放っておかれている仕事を催促する」、というのがある。こういうのは私がこの病院にいる間になんとか片付けておかないといけない。人から依頼された仕事を自分の仕事よりも後回しにするタイプのコンサルタントに依頼した私がいけないのだが、そういう人柄、マジで首を傾げる。まあ先方にもいろいろ事情があるのだろう。本当であれば昨年に終わっていたはずの仕事だ。残務といえばこれ以上に残務はあるまい。きちんと詰めて終わらせておかなければいけない。本当に迷惑なコンサルタントだ。こういうタイプに限って多忙をちらつかせながら自分の業績を鼻にかける態度をとる。反面教師に教頭試験があったら首席で合格してなんなら飛び級で校長になるだろう。
ものすごく未来の仕事の先回りの例として、たとえば「再来年しゃべってくれと言われた講演の準備」というのがある。さすがに今から準備しても会期が迫ったらいろいろ作り変えなければいけないだろうし気が早すぎるかなとも思うのだけれど、私がこの先異動をすると、しばらくの間は、学術講演プレゼンを今のスピード・今のクオリティでは作れなくなるから先に先に作っておいたほうがいい。新しいデスクは私の仕事に悪影響を及ぼすだろう。反射・反射・反射の積み重ねでほとんど無意識に動いていた、マウス、タッチペン、キーボードに触れる我が手の微細な振動、モニタに目をやるときの重心移動、がらっと変わって私の仕事の速度は激落ちくんする。なんで今くんが付いたんだろう、わかるが。今の職場のインフラを使えるうちに、未来の仕事に次々と着手しておかないと、異動を理由にいろいろと仕事が遅れる。そうしたらあの生意気で不心得のコンサルタントと同じになってしまう。
残務処理、先回り、残務処理、先回り。
こうして「今・ここ」に対する心配りがなくなることを「心ここにあらず」と表現する。日本語というのはほんとうによく張り巡らされているものだ。現在に生きないとやりがいがスカる。当たり判定が微妙な格闘ゲーム。どうにも毎日、今日の私は本当に働いたんだっけな、という懸念をかかえて暮らしている。
ところで、私がこれまでに「現在に集中している状態」であったことがあるだろうかと考えると、そんなものはないのかもしれない。誰でも思いつくわかりやすい例としては受験勉強が上げられるだろうが、受験に備えて勉強する日々というのは、半分くらいは明日(への見通し)で、半分くらいは昨日(までの蓄積)でできているもので、今日・そのとき・その瞬間に集中してなにかを行うというものではない気がする。大学に入り国家試験を通し資格を取得して専門資格もとって、さあ、落ち着いて毎日はたらくぞ、となるかというと別にならなかった。いつだって明後日の準備、来週の準備、おとといのまとめ、先週のログ、そうやって自分の越し方と行く末に、視線の射程をにじませて、意図のインクを掌でこすってのばして、現在を前方と後方それぞれに拡張しながら「だいたいの今日、プラスマイナス箱ヒゲの範囲くらいの現在」に対してぼんやりと、意識のフォーカスをぼんやりと。現在を点だと勘違いするからこそ、アキレスと亀のパラドックスも生じるし、自分の居場所が狭くて、峻岳の登頂の記念写真を取るときの足元不安のようなハラハラを常に感じることになる。今こことは点ではなく面であり、互い違いに積み上がって階層化した面をすっすと上下移動しながら右往左往する、そう、マッピーのような、グーニーズのような、そういう動きで幅をもってとらえていくのが現在であり「今・ここ」などというものはなく安住の居場所などというものもなく帰るべき場所なんてのももちろんないし本当の私なんておぼろげすぎて掴もうと思ってもじつはもうその掴もうとする手のまわりにあるすべてが私であったりするものだ。
いい病理医
茶色の研究
なんとなくだが動画を見る時間がちょっと増えてマンガを見る時間は横這いで文字の本を読む時間が少し減った。スマホの契約をようやくいわゆるギガホにしたことがちょっと関係しているとは思う。人と比べて何周も遅いが、決め手となったのはDAZNで、ドコモの今の放題プランはなぜかDAZNが無料で見られるようになり、これで日ハムの試合を毎試合チェックできるようになるなと思った瞬間にようやく重い腰が軽くなった。いままでほかにもいくらでも、きっかけなんてあったろう、なのになぜDAZN? と自分でもふしぎに思うが、こういうのは理屈とか損得とか福利計算とかでは説明ができない。背中を押してもらうきっかけというか、グラスのふちから盛り上がる表面張力の酒がこぼれる瞬間を探しているというか、とにかくそういうものをまとめて「めぐり合わせ」と呼ぶのだろう。めぐり合いという言葉はあまり好きではないがめぐり合わせという言葉は好きだ。神の放埒、ルーレットの軸の上、能動の積み重ねであったものがいつのまにか誰の意図とも噛み合わなくなる剣ヶ峰。
人の意図の底の浅さを経験するごとに、偶然とか複雑系とかそういうものに身を委ねたくなる偏り。しかし、人の意図、すなわち意識とか意思というものも、シナプスの曼荼羅の錯綜の末に総体として出力されたものなのだから、それをことさらに下に見るというのも理屈としてはまちがっているのだろう。損得とか福利計算とか経常利益とかでは説明できなかろう。
カードの引き落とし額を見て肩を落とす。転勤に備えてたくさん買ったからしかたがない。居場所を変えると金がかかる。ルーティンを変えると金がかかる。日々おなじことのくりかえしでじわじわベーシックアウトカム漏出状態のときのほうがはるかに金はかからない。しかし、我々の仕事で、日々おなじことのくりかえしなんてよく言えたものだよな。毎日違う人間が産まれ、歩き、死んでいるというのに、同じこともなにもないだろう。ともあれもっかの問題はカードの引き落とし額だ。複雑系の位相を転換しようとするときに金がかかるということを、中年もなかばをすぎた私はもう少し真剣に考えて、そろそろ腰を落ち着けたほうがいい。というか、18年、あんなに落ち着いていたのに、私は本当に落ち着かないままでいた。次は落ち着けるだろうか。無理に決まっている。多動なのではない、私の右往左往はブラウン運動だ。大量の原子が高速で四方八方からぶち当たってくる中に暮らしている限り続く本質的な振動だ。その振動のさなかに腰を落ち着けるなんてこと、はずかしくて、できたものではない。
甲斐バンド
山を崩していく作業という感じで日々を過ごしている。いらん摩擦があちこちで生じていて、そのすべてを馬鹿正直にストレスとして受け止めると、大変なので、ほどよく無頓着でいる。たとえばこれは例え話なのだが、職場に「自分のデューティがある日にばかり有給休暇を申請する管理職スタッフ」がいるとして、休暇を好きなときに取れるのは職員の権利なのだから当然だと考えるか、毎回休まれるたびにほかのスタッフにしわよせがいくことに気づいていないことを問題と考えるか、なんとなく、後者の考え方をする人が世の中にはものすごくたくさんいるような気がするのだけれど、ここで前者を選び取って、あとはもうしわよせもなにもかも自分でさっと引き受けて忘れてしまう。そうすることで諍いも足の引っ張り合いもない職場を保ち続けていく。ちなみにこのやりかたは、私が退職した瞬間に破綻するので、結果として長い時間をかけてこの職場をだめにしていっている、と考えることもできる、けれど、そんなことを考える人のほうが世の中には圧倒的にたくさんいる、そんな、人と同じことばかり考えていても生きてる甲斐がねぇんだよォッ(テリーマン)ということなのだと思う。どういうことなのだと思う? わからないけれどそこはなんか寝技的な技術をもちいてねっとりゆっくりと改善していけばいいのではないかと今の私などは考える。思って実行してうまくいって解決、みたいな、中学生にもできる仕事ばかりしていたら、大人として給料をもらう意味がぼやけるではないか。どちらを立てても全部が立たずの場所でそれでもなんとか膝立ちくらいで全体をやりくりしていく謎の出し入れ力みたいなものを胸の奥からダンビラ的にすらりと抜いてなんぼなのではないか。ない。
OncomineとAmoy、どっちを出しますか。コンパクトパネルのほうがいいんじゃないかなあ。でもうちと違ってこの病院はコンパクトパネルをすすめる事務手続きがまだ終わってないんですよね。なんだそうか。だったらシングルプレックス乱れ打ちで出すか。いや、Amoyがいいかなあ。帯に短したぬきの流し素麺だな。なんですかそれは。あげだまを流す。ふにゃふにゃになるからやめろ。御意。
わかりやすいストーリーというのはだいたい金儲けのために構造化されており、途中で参加者たちがダレるタイミング、めんどくさくなるタイミング、うやむやになるタイミング、そういったところで金銭がチャリンチャリン発生するようになっていて、でもめんどうになった人間というのはそれをわかりやすく解消するためになんらかの支払いをものともしなくなるものであり、TikTokShopみたいなものであって、つまり何がいいたいかというと、わかりにくいストーリーを地道に歩んでいくことに心を折らなければ、長い目で見たときにちょっとだけ、悪い人間に金をかすめとられることも減るのではないかな。選挙なんてまさにそういうことだと思うんだよな。とはいえ、人生、何度かは、かすめとられて悔しく思ってそれをバネに跳躍するくらいのほうが、マリオ的な意味でジャンプできてかえってうまくいくのかもしれないね。
実家に届け物があって帰ったらスイカを出されたので食べたらうまかった。文脈まみれの行動だがやっていることはとてもシンプルだ。このようなたどり着きかたをするまでの間に、他人であれば説明しなければいけないことが無限にあるのだけれど、家族であるとそういう途中の話をすっとばせるので、本当はわかりやすいストーリーでもなんでもないんだけれど結果的にやることがシンプルになる。それが家族の効用であり所属することの効用であり、身を預けるということの効用であり甲斐の確保ということなのかなという気がする。