脳だけが旅をする

タリーズコーヒーではソイラテかハニーミルクラテをだいたい頼むのだが近頃よく当たる店員はハニーミルクラテにハチミツを気持ち多めに入れている気がする。昔に比べ、飲み終えるころにカップの底にたまっているハチミツが濃い。口の中の浸透圧を最後に殴られる感じで、まずくはない、むしろうまいのだが、しかし、刺激を求めてハニーミルクラテを頼んでいるわけではないので若干ふくざつな気分である。もうちょっと最初から最後まで安定した味でもいいんだけどな。世の中は味変うんぬんにやたらとこだわりがある。しかし「万遍ないこと」が安心を呼ぶというのもまた真実のひとつの側面ではなかろうか。

真実! 笑う。真実じゃないものがこの世にどれだけあるというのか。虚構だって、それを生み出した作者という真実があって存在するのだから、ある意味真実の分泌物と考えることもできるだろう。ずれ、かんちがい、かたより、ゆがみ、それらもすべて、心象的な光が象徴的な重力によって概念的に曲げられた結果、すなわち、情緒的な物理学によって変化させられたひとつの真実と考えることもできるだろう。つまり「真実」というのは「あまねくすべて」のことであり、「真実」という単語は何もかも含んでしまうので、だから、つまり、逆に、「真実」という言葉をあえて使わなければ表現できないものというのはなくて、結局、「真実」なんて言葉を用いる機会はないのである。なのに真実! 笑う。

一方の、妄想! 夢! 解釈! となると一切笑えない。多様すぎる。互いに素すぎる。孤高すぎる。孤島すぎる。私にとっての妄想が誰かにとっての妄想であることがこの世にどれだけあるというのか。私のための夢。私オリジナルの解釈。クオリアって言葉、概念、だいっきらい、わがままで引きこもりの咆哮にへんな横文字の名前を当てた人間が全員真実のいち側面だということに、ひっくり返らざるを得ないにも程があることこの上ないったらありゃしない。ひっくりかえせば名宮なしの迷探偵。ンナコ「真実はいつも不可算名詞!」ンナコ「体は子ども、頭脳も大宇宙の年齢から考えたらたいがい子ども!」ンナコ「ンラー!」ンナコ「よーしこのレッドブルでおっちゃんを眠らせないで……ピスッ」

タリーズコーヒーのカップを捨てに行って戻ってきてこれまで自分が書いたものを読んでためいきをつく。なにやってんだ。この世の中にまたひとつ、確実な真実を残してしまった。書くということはそういうことだ。もちろん、書かなくても真実はつむがれていく。なにをしてもしなくても。ただし、思索だけは別だ、それはどれだけひらいても、確たる物として世に残ることはなく、残れ、残れ、と願いつづけても、むなしく消えて露となって、真実の足元を湿らせる。

そこで懐ゲ脳

ちかごろは、「残務処理」and「ものすごく未来の仕事の先回り」がメインとなっている。これはつまり現在にかかずらっていないということだ。

残務処理の例として、たとえば「他施設の病理医にコンサルテーションを依頼したがそれっきり放っておかれている仕事を催促する」、というのがある。こういうのは私がこの病院にいる間になんとか片付けておかないといけない。人から依頼された仕事を自分の仕事よりも後回しにするタイプのコンサルタントに依頼した私がいけないのだが、そういう人柄、マジで首を傾げる。まあ先方にもいろいろ事情があるのだろう。本当であれば昨年に終わっていたはずの仕事だ。残務といえばこれ以上に残務はあるまい。きちんと詰めて終わらせておかなければいけない。本当に迷惑なコンサルタントだ。こういうタイプに限って多忙をちらつかせながら自分の業績を鼻にかける態度をとる。反面教師に教頭試験があったら首席で合格してなんなら飛び級で校長になるだろう。

ものすごく未来の仕事の先回りの例として、たとえば「再来年しゃべってくれと言われた講演の準備」というのがある。さすがに今から準備しても会期が迫ったらいろいろ作り変えなければいけないだろうし気が早すぎるかなとも思うのだけれど、私がこの先異動をすると、しばらくの間は、学術講演プレゼンを今のスピード・今のクオリティでは作れなくなるから先に先に作っておいたほうがいい。新しいデスクは私の仕事に悪影響を及ぼすだろう。反射・反射・反射の積み重ねでほとんど無意識に動いていた、マウス、タッチペン、キーボードに触れる我が手の微細な振動、モニタに目をやるときの重心移動、がらっと変わって私の仕事の速度は激落ちくんする。なんで今くんが付いたんだろう、わかるが。今の職場のインフラを使えるうちに、未来の仕事に次々と着手しておかないと、異動を理由にいろいろと仕事が遅れる。そうしたらあの生意気で不心得のコンサルタントと同じになってしまう。

残務処理、先回り、残務処理、先回り。

こうして「今・ここ」に対する心配りがなくなることを「心ここにあらず」と表現する。日本語というのはほんとうによく張り巡らされているものだ。現在に生きないとやりがいがスカる。当たり判定が微妙な格闘ゲーム。どうにも毎日、今日の私は本当に働いたんだっけな、という懸念をかかえて暮らしている。

ところで、私がこれまでに「現在に集中している状態」であったことがあるだろうかと考えると、そんなものはないのかもしれない。誰でも思いつくわかりやすい例としては受験勉強が上げられるだろうが、受験に備えて勉強する日々というのは、半分くらいは明日(への見通し)で、半分くらいは昨日(までの蓄積)でできているもので、今日・そのとき・その瞬間に集中してなにかを行うというものではない気がする。大学に入り国家試験を通し資格を取得して専門資格もとって、さあ、落ち着いて毎日はたらくぞ、となるかというと別にならなかった。いつだって明後日の準備、来週の準備、おとといのまとめ、先週のログ、そうやって自分の越し方と行く末に、視線の射程をにじませて、意図のインクを掌でこすってのばして、現在を前方と後方それぞれに拡張しながら「だいたいの今日、プラスマイナス箱ヒゲの範囲くらいの現在」に対してぼんやりと、意識のフォーカスをぼんやりと。現在を点だと勘違いするからこそ、アキレスと亀のパラドックスも生じるし、自分の居場所が狭くて、峻岳の登頂の記念写真を取るときの足元不安のようなハラハラを常に感じることになる。今こことは点ではなく面であり、互い違いに積み上がって階層化した面をすっすと上下移動しながら右往左往する、そう、マッピーのような、グーニーズのような、そういう動きで幅をもってとらえていくのが現在であり「今・ここ」などというものはなく安住の居場所などというものもなく帰るべき場所なんてのももちろんないし本当の私なんておぼろげすぎて掴もうと思ってもじつはもうその掴もうとする手のまわりにあるすべてが私であったりするものだ。

いい病理医

いい病理医というのはふだんどのように顕微鏡を見てなにを考えてどのように記載をしているのか、みたいなことを、当然私は本職だからしょっちゅう考えておくべきだと思うし、なにかにつけてそういうことが考えられるような環境に身を置くようすすんで立ち位置を調整すべきだ。これについて、かつてと少し違うのは、20年前、10年前くらいだと、いい病理医というのが基本的に自分より年上だったわけだが、今は私が加齢したため、私と同年代とか私より年下でもいい病理医である確率がだいぶ高まっていて、ちょっと大胆に、もしくはずうずうしく、「どうやって診断してるんですか!」をにじり寄り的にたずねても怒られない(いやがられはする)。

見て盗む時代でもない。とはいえ、やはり自分よりはるかに上の人間たちの診断にかんする思いが手取り足取り伝授されることはまずないので、ここは見て盗まなければいけない。しかし、同年代や下の人間だったら(失うものはあるのだけれど)堂々と、教えてください! と言ってもいい、だったら聞いちゃえ! ということで近頃はよさげな病理医に会うたびに診断の話をたずねる。迷惑な中年である。

よく返ってくるリアクションとしては「よい病理診断のコツですか? 臨床医とコミュニケーションをとることです」というやつだ。それはまったくそのとおりだし、そのとおりにすること自体がさまざまな理由で困難をはらむので(病理医と臨床医というのは活動時間帯も生息帯域もけっこう異なる、夜行性の昆虫と浅瀬の川魚とがどうやって交流するのかという話に近い)、いくつになっても気にしていなければならないのは本当だ。ただ、正直言ってその程度の話を「診断のコツ」として言われて納得するレベルで収まっていたら私がやばい。学生じゃないんだから。病理夏の学校の講師トークじゃないんだから。

そうだね、で、それで、その先は? と尋ねる。たとえば顕微鏡を見る前にどれくらい自分の心の中の「さくいん」をダーッと見返すの? 顕微鏡を見る前にプレパラートを光にかざして見る? それはいつもやる? 生検でもやる? むしろ生検だからやる? 顕微鏡にプレパラートを置いて何秒でいったん呼吸する? あるいはずっと呼吸している? プレパラートを見ている最中から診断の文章を考えるようにしている? それとも見ているときは文字はいったん横において顕微鏡を見終えてから一気に診断の文章モードに入る? それはなぜ? もちろんあなたは病理医だからすでにそういうやりかたのあれこれを試しまくっていると思うけれど、なぜ今のスタイルになったの? 依頼書をちょっとしか読まないスタイルと一気に最後まで読んでから顕微鏡にとりかかるスタイルで、結果として今、ちょっとしか読まないスタイルにたどり着いたのはどういう心境の変化? 悪性と良性の根本のところで間違える可能性があるような病気をいくつ暗記している? 臓器ごとにピットフォールとなる疾患をポケモン言えるかなみたいに暗唱する夜はある? 文章は長く書きたい派? なるほど、こだわりでたくさん書く、それは全部の臓器に対して? これらの文章はどれくらい先輩から受け継いだ? どこをなぜ変えようと思った? 教科書は参考にした? WHOオンラインは個人で契約している? 取扱い規約は通読する? そこまで仲良くない私に根掘り葉掘り聞かれてどう思った? とガチンコの国分太一化してあれこれをたずねていくことは年上の病理医にはまずできないので、後期高齢中年の役得と言っても過言ではない。

で、こういう話をそれなりにたくさんの病理医に聞いてきたのだが、優れた病理医の場合、最初の「顕微鏡を見る前にどれくらいさくいんを……」のあたりで、なるほど上級編のハウツーを聞きたいんですねといちはやく(はやすぎる)理解してくれて、こっちが何も言わなくてもありとあらゆる動きを言語化したり「言語化できない部分がある」ということを言語化したりしてくれる。冗漫でメタな結論としては、「いい病理医というのは、こちらの意図を汲んでからそれを議論に耐える文字情報として彼我の間に置くまでのスピードが早い」というもので、それって結局コミュニケーションじゃん、となって語るに落ちてお里が知れてとっぺんぱらりがぷうっとふくれる。

茶色の研究

なんとなくだが動画を見る時間がちょっと増えてマンガを見る時間は横這いで文字の本を読む時間が少し減った。スマホの契約をようやくいわゆるギガホにしたことがちょっと関係しているとは思う。人と比べて何周も遅いが、決め手となったのはDAZNで、ドコモの今の放題プランはなぜかDAZNが無料で見られるようになり、これで日ハムの試合を毎試合チェックできるようになるなと思った瞬間にようやく重い腰が軽くなった。いままでほかにもいくらでも、きっかけなんてあったろう、なのになぜDAZN? と自分でもふしぎに思うが、こういうのは理屈とか損得とか福利計算とかでは説明ができない。背中を押してもらうきっかけというか、グラスのふちから盛り上がる表面張力の酒がこぼれる瞬間を探しているというか、とにかくそういうものをまとめて「めぐり合わせ」と呼ぶのだろう。めぐり合いという言葉はあまり好きではないがめぐり合わせという言葉は好きだ。神の放埒、ルーレットの軸の上、能動の積み重ねであったものがいつのまにか誰の意図とも噛み合わなくなる剣ヶ峰。

人の意図の底の浅さを経験するごとに、偶然とか複雑系とかそういうものに身を委ねたくなる偏り。しかし、人の意図、すなわち意識とか意思というものも、シナプスの曼荼羅の錯綜の末に総体として出力されたものなのだから、それをことさらに下に見るというのも理屈としてはまちがっているのだろう。損得とか福利計算とか経常利益とかでは説明できなかろう。


カードの引き落とし額を見て肩を落とす。転勤に備えてたくさん買ったからしかたがない。居場所を変えると金がかかる。ルーティンを変えると金がかかる。日々おなじことのくりかえしでじわじわベーシックアウトカム漏出状態のときのほうがはるかに金はかからない。しかし、我々の仕事で、日々おなじことのくりかえしなんてよく言えたものだよな。毎日違う人間が産まれ、歩き、死んでいるというのに、同じこともなにもないだろう。ともあれもっかの問題はカードの引き落とし額だ。複雑系の位相を転換しようとするときに金がかかるということを、中年もなかばをすぎた私はもう少し真剣に考えて、そろそろ腰を落ち着けたほうがいい。というか、18年、あんなに落ち着いていたのに、私は本当に落ち着かないままでいた。次は落ち着けるだろうか。無理に決まっている。多動なのではない、私の右往左往はブラウン運動だ。大量の原子が高速で四方八方からぶち当たってくる中に暮らしている限り続く本質的な振動だ。その振動のさなかに腰を落ち着けるなんてこと、はずかしくて、できたものではない。

甲斐バンド

山を崩していく作業という感じで日々を過ごしている。いらん摩擦があちこちで生じていて、そのすべてを馬鹿正直にストレスとして受け止めると、大変なので、ほどよく無頓着でいる。たとえばこれは例え話なのだが、職場に「自分のデューティがある日にばかり有給休暇を申請する管理職スタッフ」がいるとして、休暇を好きなときに取れるのは職員の権利なのだから当然だと考えるか、毎回休まれるたびにほかのスタッフにしわよせがいくことに気づいていないことを問題と考えるか、なんとなく、後者の考え方をする人が世の中にはものすごくたくさんいるような気がするのだけれど、ここで前者を選び取って、あとはもうしわよせもなにもかも自分でさっと引き受けて忘れてしまう。そうすることで諍いも足の引っ張り合いもない職場を保ち続けていく。ちなみにこのやりかたは、私が退職した瞬間に破綻するので、結果として長い時間をかけてこの職場をだめにしていっている、と考えることもできる、けれど、そんなことを考える人のほうが世の中には圧倒的にたくさんいる、そんな、人と同じことばかり考えていても生きてる甲斐がねぇんだよォッ(テリーマン)ということなのだと思う。どういうことなのだと思う? わからないけれどそこはなんか寝技的な技術をもちいてねっとりゆっくりと改善していけばいいのではないかと今の私などは考える。思って実行してうまくいって解決、みたいな、中学生にもできる仕事ばかりしていたら、大人として給料をもらう意味がぼやけるではないか。どちらを立てても全部が立たずの場所でそれでもなんとか膝立ちくらいで全体をやりくりしていく謎の出し入れ力みたいなものを胸の奥からダンビラ的にすらりと抜いてなんぼなのではないか。ない。

OncomineとAmoy、どっちを出しますか。コンパクトパネルのほうがいいんじゃないかなあ。でもうちと違ってこの病院はコンパクトパネルをすすめる事務手続きがまだ終わってないんですよね。なんだそうか。だったらシングルプレックス乱れ打ちで出すか。いや、Amoyがいいかなあ。帯に短したぬきの流し素麺だな。なんですかそれは。あげだまを流す。ふにゃふにゃになるからやめろ。御意。

わかりやすいストーリーというのはだいたい金儲けのために構造化されており、途中で参加者たちがダレるタイミング、めんどくさくなるタイミング、うやむやになるタイミング、そういったところで金銭がチャリンチャリン発生するようになっていて、でもめんどうになった人間というのはそれをわかりやすく解消するためになんらかの支払いをものともしなくなるものであり、TikTokShopみたいなものであって、つまり何がいいたいかというと、わかりにくいストーリーを地道に歩んでいくことに心を折らなければ、長い目で見たときにちょっとだけ、悪い人間に金をかすめとられることも減るのではないかな。選挙なんてまさにそういうことだと思うんだよな。とはいえ、人生、何度かは、かすめとられて悔しく思ってそれをバネに跳躍するくらいのほうが、マリオ的な意味でジャンプできてかえってうまくいくのかもしれないね。

実家に届け物があって帰ったらスイカを出されたので食べたらうまかった。文脈まみれの行動だがやっていることはとてもシンプルだ。このようなたどり着きかたをするまでの間に、他人であれば説明しなければいけないことが無限にあるのだけれど、家族であるとそういう途中の話をすっとばせるので、本当はわかりやすいストーリーでもなんでもないんだけれど結果的にやることがシンプルになる。それが家族の効用であり所属することの効用であり、身を預けるということの効用であり甲斐の確保ということなのかなという気がする。