エゴブロック

懇親会の会費が年々高くなっている。息子と同じくらいの年の人間にたずねる。いまどき飲み食い放題だと5000円とかになるでしょう。バイト代的に大変じゃないですか? すると彼はこのように答える。いや、べつに、ふつうに3000円とかですよ。マジで? そんな店、いまどきある? 見せてくれたスマホになるほどと頭を垂れる。こういう店を私が探せなくなっているのだな。ファーストオーダーはポテト、からあげ、枝豆のセットです。これを食べきらないと次の料理は出てきません。そこからはアペリティフ4品、メイン8品の中から食べ放題! や、これ、私、および私がいっしょに飯を食うような人間たちにはもう無理だ。ポテトと枝豆でお腹いっぱいになってからあげは食いきれないだろう。大学生向けの店。相場というのはあるのだ。どんなお酒を飲むの。ハイボールとかですかね。一杯目からハイボールってかっこいいね。いや、別に何でも飲むっすよ。ビールは飲まない? ビールは飲むときもありますね。空気を読んで飲みますね。そうかあ。

資産形成の棚が日に日に横にでかくなっていく本屋にがっかりした。あの本屋、最近、品揃えがカネと加齢の方向に寄ってる気がするんだよな。そうすると反論された。そんなことないよ。あの本屋は店員がすごくがんばって小説のおすすめコーナーとか、新聞の書評欄に出てきた本をまとめた棚とか作ってるんだよ。見たことないの? 見たことなかった。もう一度だけ行ってみた。本当だった。カネと加齢の棚のほうにしか目がいっていなかったのは私だった。私の側に原因があった。変わった、変わった、世の中が、ちがう、変わったのは私、いや、両方、ねじれの位置で、遠ざかる方向に、変わった、変わった。

もらった本を捨てる。私向けではなかった。でも、誰かのために書かれた本ではあった。それはもしかすると、著者のためであったかとは思う。私はその、著者のためにだけ書かれた本というのを、このジャンルについては許せなかった。このジャンルにおいては、著者は常に、読者のほうを向いていてほしかった。でも、それはあくまで私の好み、私の目線、私の都合、私の腹のサイズによるものなのかなという気もした。


タクシーの運転手に行く先を告げる。手元のメモを見ながら、◯条◯丁目、と言うと、運転手はわずかに止まってからハンドルをぐるりと回そうとする。方向、こっちであっていたような気がするのだが、と思って、道の真ん中でカチカチ展開のタイミングをはかっている運転手に、あっと気づいて声をかけた。すみません、北です。北◯条◯丁目。すると運転手は鼻先で大きくハフっと息を爆発させながら、「ああ! 北! そうですか! なら曲がらなくていいやね。なに、南かと思ってね。なるほど◯条とだけ言われたからね」と、まだ曲がっていなかった車を大きくうねらせるように立て直してアクセルを踏み込んだ。腹落ちしないものがお互いにある。住所を言うなら北とか南とかを省略するなんてとんでもない、その理屈も感情も完全にわかる。


”この話で主人公が敵視する「局地的な『正しさっぽい空気感』を醸し出して周囲を巻き込みながら無自覚に戦略的にエゴく生きるタイプの人」って、私もわかる! しかも苦手なんですよ”


さっきまで読んでいた書評本の一節が思い出された。今度、高瀬隼子を読んでみよう。きっと、いろいろハマるのではないか。

スタンバドイミー

店内ご利用ですか。はい、スターバックス・ラテ、トール、ホットでください。かしこまりました。マグカップでお出ししてよろしいですか。お願いします。おまたせしました。早いなあ。こちら、トールサイズ・ブリュード・コーヒーになります。ありがとうございます。


なぜだろう。来し方を振り返る。発音がまずかったか。それとも見た目や雰囲気か。私はたしかにラテと言ったと思う。それも正式名称でだ。スタバでラテといえば中心メニューだろう。ジンジャーラテと言ったわけでも新作のスープと言ったわけでもない。なのに本日のコーヒーが出てきた。なんらかの陰謀を感じる。今日、この時間、このタイミングで、あと何杯か、本日精製したコーヒーを、出しきらないと無駄になるとか、そういう話なのではなかろうか? チーンチーン。ピロピロ、ピロピロ。正解のチャイムが鳴り響く。開いたPCの向こうに、少しヒールの高いパンプスが見え隠れして、なにやらスーツケースを少しだけ開けてまた閉めて椅子に座り直す人。私は面をあげず顔を見ないままでいる。なんとなく美女であろうなあという期待が心を沸き立たせる。ハラスメント。市原・ハラスメント。略して、イチハラ。トールサイズのホットコーヒーなど要らなかった。境界面に油分の浮かないきれいなコーヒー、しかし、胃の中には早くも油膜が張っていて、エコーで見れば境界面がスムースにぎらつくだろう。私はラテが飲みたかった。より、細かくいうと、私は牛乳がほしかったのだと思う。ホット・ミルク。研究会の世話人会がはじまるまでの1時間、特に何もやることがなく、細胞診専門医の資格を更新するためのクソみたいな書類でもちまちまいじろうかと、入ったスタバで私はあたたかい牛乳を口にしたかったのだと思う。胃粘膜を白くオーバーレイしてくれるものがほしかった。黒褐色の膜。にこにことマグカップを受け取った私に、店員はダメ押しとばかりに、「今度はこちらのスープもお試しください。はじめて、スープが出たんですよぉ」と言った。ほほえんだ。ポテトのスープだろうか。白い。私はそのスープでもよかった。なぜ、注文する前に、これをおすすめしないのか。もちろん、こちらが注文する前に勝手におすすめをしゃべる店員のほうが、普段は私はきらいだし、おそらく多くの人もきらうから、だからこの店員はきっちりとこの場に最適化されて、注文が終わったあとの客に次の来店をうながすように、新商品の説明をしたのではないかと予想する。チーンチーン。ピロピロ、ピロピロ。ふと顔を上げる。大きく広がった窓の手前に頭髪の少し薄くなった男性が座って、ほとんど動かずにスマホを見ている。セーターが椅子の背もたれの上に少しだぶついていて、彼は今、リラックスできているのだろうなと、私はかなりいい気分になる。「ねえ、それ、どういう意味?」が口癖だった人間の顔がぼんやりと思い出され、脳内で、四半世紀分、歳を取らせる。イチハラ。

アロスタシス

二度寝をしても十分に早い時間に起きて、二度寝する。次に意識のフォーカスが合ったとき、まぶたの向こうに人影を感じて、目を開けるのを少し躊躇するが、タイマーでつけておいた暖房の風が洗濯物を揺らしていただけだった。スマホのメモを見て、食卓においてある手書きのメモを見て、仕事の予定と買い物の予定、Kindleを開けば新刊がダウンロードされるのを待っている。朝飯の支度をしながらテレビを付けると季節外れの豪雪のニュースをやっていて、思わず窓を開ける、たしかに雪は積もっているがそこまで豪雪というほどでもないなと感じる。あの家はどうだろう、あの家はどうだろうかと、いくつかLINEをしてみるけれど、どこもかしこも「別にニュースほどじゃないよ」との返事で、安堵する。ただ、週末の高速道路はやめたほうがいいかもしれないと思った。雪の振りはじめの時期、朝や夕方には残念だが必ず事故が起こる。巻き込まれそうで怖い。事故は毎年繰り返されており、なんとか予防できないものかと思うけれど、事故はひとりの人間によって繰り返されているわけではなく、人類が総出で代わる代わる繰り返しているだけのことで、高速道路から見ればあいかわらず同じような見た目の人間が同じようにスリップしているなあと感じるだろうけれど、私たちはひとりひとり別個の細胞である。「反復性の虫垂炎」とか「繰り返す胆石発作」のことを考える。なぜこの虫垂は何度もいたむのか、とか、どうしてこの胆嚢はしょっちゅう仙痛を起こすのか、なんていうけれど、実際にそれを起こしているのは、毎回同じ要因にみえてもじつは中身が入れ替わっていて、それぞれ違うものによって似たような光景が再現されているに過ぎない―――いやまてよ、虫垂なら同一の糞石が、胆嚢なら同一の胆石が、悪さをしていることもあるわけで、つまりそれは高速道路の側にも事故の理由があると、いや、高速道路は虫垂で言えば虫垂壁、胆嚢で言えば胆嚢壁であろうが、石は道路そのものではなくて、道路を埋め尽くす外来の物、たとえば雪、つまり雪のせいだ――。結論、「雪が積もると危ない」。何も引き出せない無駄な循環思考の跡を、一歩下がってブラウザを薄目で眺めてためいきを着く。

鼻の中の表皮が乾いている。あんなにたくさん洗濯物を干して寝たのに。

出勤の準備を終えて、緑茶を沸かして水筒に入れ、残った茶をマグカップに入れて飲む。昨日はこうして茶を飲みながら、『シルバーマウンテン』の2巻を読んでいたら、あまりにおもしろくて、物語の時間に引き込まれて何時間も過ごしたような気になって、マンガを読む前に飲んだはずの血圧とコレステロールと痔の薬を、マンガを読んだあとにうっかりもう一度飲んでしまい、それでなんとなく一日血圧が低くてかなりしんどかった。コレステロールも減ったろう。なのに痔は別にそこまでよくなっていない。この薬はいったいなんなんだ。何に効いているんだ。何にも効いていないのか。気が利いているわけでもないし、言い聞かせられたわけでもない。ただ、毎日、違う物性を同じとみなして繰り返し摂取し続けることが、昨日と違う素材でできた自分を昨日と同じだと認識する上で必要だというだけの話である。

咀嚼音が強い人間

咀嚼音が強い人間。ぐちゃぐちゃくちゃくちゃ言っている人間。男女を問わない。どことなく、キャラクタとかありように、共通点があるように思う。ぐちゃくちゃタイプをしばらく観察していると、見た目やしゃべりかたや立ち居振る舞いなどは必ずしも一定の傾向を示さないのだけれど、どこか、なにか、雰囲気に共通点があるように感じる。

「自己顕示欲が強い」という感じか。あるいは、「細かいところに気が付かない」という感じか。どちらも微妙にずれている気もする。もう少しきちんと言葉にする。

咀嚼音が強く、ためいきを人に聞かせるタイプの、座席のひじかけに関する占有面積が多い男女。どうも、共通して、自分から発したものはすべて誰かを動かすためのものだ、と考えているように思う。何かを出したからにはそれで何かが動かないと気がすまない、みたいなイメージがある。たとえばそういう人たちは、自分という砲塔から放たれた砲丸が、自分に硝煙をまとわせることにあまり頓着していない。火薬の爆発が砲身の内側を焦がしていることに興味を示していない。自らを省みてキャリブレーションすることをないがしろにしている。自己を調整しようという気持ちがない。座標のゼロポイントを自分の重心と合致させないと認知がうまく進まない。

自分から出る音やにおいや温度に興味を示さない。だから咀嚼音が強い。まあ、なんか、そういうことなのだと思う。

そしてこれはしばしば、さきほどの私のように「自己顕示欲が強いタイプ」と捉えられたりもするのだけれど、じつはちょっとずれているのかもしれない。本当に自己顕示欲の強いタイプというのは、あるべき自己、理想の自己、調整前後の自己をよく認識しているので、むしろキャリブレーションの頻度が高いように思う。鏡をよく見る人間の食事はむしろ静かだ。摂食行動よりも写真撮影に熱心であるような。

すなわち咀嚼音を空間に響かせて平気なタイプというのは「自己の感覚神経から飛び込んでくる他者の刺激が快適であればそれ以外のものはいらないタイプ」であり、「自己を喜ばせるために自己由来の情報を必要としていないタイプ」であるので、自己顕示欲はむしろ低くて他者感受欲だけで満たされているのではないかと思う。するとそういう人間たちは自分である必要がない。アイデンティティの同一性が動機とならない。鏡が要らない。精神が身体に設置している必要がない。AI全盛時代に都合よく暮らしていける。選択圧を乗り越える力がある。未来の人類の可能性を一身に担っている。結論として、人間は滅びるべきではないかと考えている。

ひっかける

出張の際の荷物をスリムアップさせたのは基本的には正解だったのだが、爪切りを持ってこなかったのはよくなかった。メールの返事くらいはできるけれど多少長い文章を書こうと思うと爪がじゃまである。爪というのは段階的に伸びるわけではなくどうやら階段状に伸びていくようで、昨日まではぜんぜん気にならなかった、なんなら今朝の早い時間には問題なかった爪が今はもうキーボードにぶつかって邪魔でしょうがない。そういうままならなさを多少なりとも抱えたまま、未解決の状態で、納得せずに、やっていく、そういうシーンが増えた気がする。ラウンジの近い席にいる中年男性が大きなげっぷをした。何を考えて生きているんだろうとふしぎに思う。どうにかならないものかと真剣に思う。そしてこれは解決しないまま抱えていく話なのだろうなということをしみじみ思う。そういう繰り返しなのだということを身にしみて感じている。

大きな選挙や小さな理事会、中くらいの会議、些末なひざの突き合わせ、軽快なボケの連打のいくつかにツッコミを返すこと、そういうものたちを疾走するように通り過ぎていくが、どうも、たまに、すごく遅いスピードで、車窓から手を振って別れの挨拶をしてもなかなか発射しないJR北海道の遅延した特急のようなイメージで、本来は次々流れ去っていくべきものたちにいつまでもかかずらっている、粘性の高い暮らしになっている。ひとつの出来事に総体として包含されていた、異なる感覚神経を震わせる別個の体験が、ばらばらになって、あるものは忘却され、あるものだけがいつまでも残響のようにがらんどうの体内に反射している、そういうこともある。息子と食べたひつまぶしの味をもう忘れてしまったが満腹感だけを相変わらずひきずっている。二段階くらい安いものにしてもよかったのかもしれない。しかし、これは、そうやって、忘れようとしても思い出せないくらいの衝撃と、覚えようと思っても忘れられないくらいの軽薄さとの間に、息子との時間を封印するための私の生存戦略ではなかったか。


形容詞が多い、と老病理医にしかられたことを今日も思い出す。


レジリエンスという言葉を日本語にせずによく使うのだがどうもそういうものでもないような気がしてきた。必要なことは「さらりと手離れすること、さっと水気が切れること」と、「簡単に手放さないこと、豊かに包みこんで癒着すること」の両方なのかな、ということを近頃よく思う。その人のすべてを持ち去ってはいけないが、その人の一部をどこかに刻み込むということ。


親戚と会った。正確には、親戚と会った、らしい。向こうは声をかけてこなかったのだが後日DMが来た。なんだ、だったら声をかけてくれればよかったのに、と思ったけれどすぐに思い直した。このほうがおそらく、ずっと覚えているだろう。それが生きる秘訣というものだ。それが暮らしのヒントというものだ。手帳を使うのはボールペンの先の粘性が記憶の鈎になるからである。ダジャレを使うのは言葉の中の粘性が関係の鈎になるからである。