豚トロを網の上に放置してだんだん焦げていくさまをトントロピーの増加と呼ぶ

いつのころからか日中も夜もずっと考えているようになった。思考は電気信号のはずだから、本来は瞬時に終わってもよかろうものだが、PCであっても演算に時間を要するように、我々の脳内の信号もネットワーク上でいったりきたりするのに時間がかかる。きっちり5分とかたっぷり2時間考えることで解決していく案件がそれなりの頻度で存在し、それらを石積みのごとく積み上げて、すきまの部分に砂的な思考やセメント的な思考を流し込んで、人格という名前の城の、石垣部分がようやくできあがる。

むかしの城趾には土台だけが残っていることがある。私たちが生きた跡というのもあるいはそれに似ていて、今こうして誰それとやりとりをしている関係とか、周りから見た私のイメージのようなものは、言ってみれば城郭そのものであり天守閣のように飾られておっ立てられているわけだけれど、そういう派手な部分はさっさと風化するしときには戦火で焼かれたりゴジラになぎ倒されたりしてあとかたもなく失われる。一方で、時間のかかる思考を積み上げて強固にした土台の部分は跡として残ることがある。ただしそれは端から見るともはや城でもなんでもなくなっており、地図上の記号に由来を残すだけとなっていたり、近所の親子がフリスビーをする広場になっていたり、犬の散歩やドッグランに格好の草原になっていたり、酔っぱらいが花見の跡に立ちションをする人気スポットになっていたりもするのだが、とにかく、昔なにかここに建てようとした人がいたのだなという雰囲気だけは、地域の弱い記憶として残ることがある。でも最終的には世の中のありふれた凹凸としてとくさの茂みに紛れて消えていく。


考えるために考えるとか、しゃべるためにしゃべるといったムーブメントに巻き取られそうになる。ポストするために考える、みたいなのがそうだ。でも、そういうのではなく、なにか、城を建てるための「一積み」になるような思考ができないか、対話ができないかと、考える。自分を残したいとはそんなには思わないけれど、広場の土台になるというのは悪い話ではないだろう。


先日出席したかなり大きな研究会で、そうそうたるベテラン病理医たちが、ときに臨床医の疑問に鋭く答え、ときには誰もそんなこと聞いていないのにしゃべりたいからただしゃべるといった風情でえんえんと時間を食いつぶしながら発言しているのを見た。そうそう、感染症禍より前の研究会ってのはこういうところだったよな、と少しうれしくなった。臨床医たちが多く集まる研究会で病理医がしゃべるとき、それが城の土台のような荘厳な印象を与えることがある。しかし毎回きちんとした圧と威厳が感じられるわけではなくて、こいつはシャチホコばりたいだけだなとお里が知れることもある。聞かれたことにまっすぐ答えない病理医。問われていないことを語る病理医。考えているように見えてじつはそれほど考えていない病理医。みなひとりひとり何事かのいしずえにはなっていて、でも、戦闘に強い城を建てるタイプの病理医と居住に向く城を建てるタイプの病理医とではやはりどこか石の積み方というか固め方のようなものが違う。自分以外の病理医がたくさん出席する場にいるとおもしろい。みなさまざまに築城をしているように見える。そして兵どもが夢の跡だ。



日々は猛烈な勢いで過ぎ去っていくし私の肌は目に見えてぼろぼろになってきているのだがカレンダーの予定は遅々として前に進まず常に準備するプレゼンが山積。半年先にしゃべるものまで作り終わっている一方で明日しゃべる予定の内容をまだ細かくいじっているのだから結局なにもかもが未完成だ。診断はいつも暫定解であり所見は瞬間の仮止めにすぎない。正義は脱構築されないが正義を目指すところの法は未来永劫脱構築されつづけていく、という話を読んだとき、つまりはサイエンスじゃんと思ったが、サイエンスも法も考えてみれば気楽なものだ。変化し続けようが残り続けるのだからそれはつまり不死ではあるわけだ。一方の私、うたかた、さて、どこまで残すことと残らないこととのバランスをとっていくかという極小範囲の懸念に今日も悩まされることになる。

日常回

ちょっと深酒をしてしまい、朝起きると、首が寝違えたか寝違えてないかぎりぎりのラインの痛さを発している。ぎりぎりである。左側の側頭部だけ髪の毛が増えたような寝癖もついている。髪の毛をぬらしてからご飯を食べて食器を洗ってふたたび鏡をみると寝癖は少しおとなしくなっており「起き癖」くらいにはなっていたのでまあこれなら出勤してもよかろうと判断する。職場に付くと天井の蛍光灯が1箇所切れていた。たった1箇所だけでこんなにも暗く感じるものなのかと思う。ふだんが明るすぎるのだろうか。窓から朝の光が入っていても検査室内はどことなく薄暗く、でもその暗さはたった1箇所の蛍光灯が切れていたというだけのことなのだ。ふだん、たくさんの要素によってバランスを取っているものがあったとして、その1箇所が急に仕事をしなくなると全体が一気に不調っぽくなるというこの現象、なんというか、人間の体みたいなもんだなと思う。ただし実際のところ、世の中のものはなんでもかんでも人間の体にたとえることはできる。株価が乱高下するのも同級生の三角関係もサッカーの戦術もおかたづけの秘訣もすべて人体にたとえることができる。あっぱれ人体。あっぱれ人体というのは山本健人の本の名前です。


フォカッチャの母親はふぉかあちゃんである、というポストをした。クソ引用がいっぱいつく。フォカッチャの赤ちゃんはふぉかあかちゃんか(ふぉかちゃんだろう)、光粒子の父親はふぉとんか(それはそうだろう)。ちなみに、おとうさんをオトン、おかあさんをオカンと呼ぶルールを拡張するとあかちゃんはアカンになります。


新しい講演のスライドを作らなければいけない。記録によるとこれまで肝臓にかんする講演は22回ほど行ってきたが、そのどれとも異なる話を今回はしたい。講演するのは半年くらい先。でもなるべく早くプレゼンを作ってしまいたい。仕事というのは前倒しにするに越したことはない。「明日できることは今日しない」というポリシーは、昨日も今日も明日も基本デフォルト急な予定でてんてこまいほぼ確の私にはうまく適用できない。どうしてこんなにいつもばたついているのだろう。長年ひとつの病院で暮らして完全に最適化された行動しかとっていないのにこの体たらく。午後3時ころに仕事が一段落してあとは文庫本でも読んで終業を待つ、みたいな働き方を一度くらいやってみたかった。


病理診断の標本をいくらみても、その臓器や細胞が体の中で生きていたころのダイナミズムはわからない。わからないというと語弊がある、推測は可能だ。しかし推測しか可能ではない。そこがはがゆい。推測の確度を高めるにはふたつのやり方がある。ひとつは統計学的な処理だ。こういうときはこうだよねというデータをばんばん蓄積することで、このパターンならたいていこうだよという類推が切れ味のよいものになる。もうひとつは神になることだ。神だから何でもお見通しである。理屈が途中すっとばされていても神ならばしかたがないしそれが当然だ。デウス・エクス・デウスである。そんな言葉ないわ。


だいたい書けた書けた。今日もブログがだいたい書けた。あっ、でも、数字をぜんぶ漢数字に揃えようかなあ。まあいいや。そういうのは校正とか校閲の人が仕事でやることだからな。ウルトラマンの歌の「ひかりのくにから ぼくらのために 来たぞ われらの ウルトラマン」を聞いて編集者や校正者は「ぼくらとわれらで表記揺れしてんじゃん……」と落ち着かなかっただろうか。でもあれは、合唱曲なのだ。子ども合唱団が「ぼーくらのために」と歌ったあとに、大人合唱団が「来たぞ われらの」と歌って、そこから「ウルトラマン」を全員で歌うのだ。だから表記揺れではないのである。まあ今考えたウソなんだけど。あっ、でも、ウソは嘘って漢字で書いたほうがふんいきがいいかなあ。

iPhoneこそは家族のためのツール

iPhone 16が発表になったので買い替えるだの見送るだのいう話題がタイムラインを流れている。スマホってそんなにほいほい買い替える必要ないだろうとかいうのは野暮で、これはいわば「正月」といっしょの風物詩だ。定期的にめぐってきたらそれに向かい合って労力や金銭を投入してみんなでワイワイ言うことが大事。昼はたまにしか会わないよその家の子(比喩)のめんどうを見て、夜はたまにしか会わない親族(比喩)と酒を飲んで、ふだんはむしろ仕事や学校やバイトや趣味で会話もなくなっている同居の家族(比喩)とも珍しくだらだら話し込んでしまったりして、決め事に追われつつもいつもと違うという中途半端に気だるい時間、ハレでもないケでもない宙吊りの半祭礼状態にほうりだされる。それが正月、そういう古き日本の定例行事が、家族単位の変化と共に失われつつある昨今、人間の本能が求める互酬……というか「互いに無駄をおしつけあうコミュニケーション」の代替として浮上したのが、Apple製品の定期的なアップデートとそれにまつわる大騒ぎなのだろう。たまにしか会わないF/F外の子のポストを見て、相互フォロー同士でいいねを酌み交わし、エアリプ以外でやりとりのない古参とも珍しく直リプをやりとりしたりする。iPhone買い替え騒ぎイコール正月理論。

みんな好きに楽しめばいい。かくいう私はそういう定期的な祭礼は正月だけで十分だと思っているのでこれからもApple製品は使わないけれど、ジョブズを毛嫌いしているわけでも黒のタートルネックが生理的に無理なわけでもないし、iPhoneを買い替えたといって楽しそうに自撮りする人の写真がTLにあふれてもみなさんの想像以上に優しい目でそれを見ていて何なら心から応援しています。

テレビ番組で「有吉の夏休み」というのがあって、有吉弘行は毎年似たような芸能人(田中、吉村、みちょぱ等)を集めて夏休みと称して数泊の長いロケをするのが定番になっている。これぜんぜん休んでないよね、みたいなことをテレビのこちら側でだらだらつっこむところまでがワンセット。そしてiPhoneの新作が出るたびに盛り上がる人間というのは有吉の夏休みのディレクターと似たような思考回路なのだろう。それはさぞかし楽しいだろう。金はかかるし合理的な意味もないんだけどたまに集まってワイワイ言うだけで心が洗われるような気持ちになるだろう。ちなみにくだんの番組はたぶんけっこう視聴率がいい。テレビというコンテンツを見るのはもはや45歳以上が中心で、それより若い人がたまにテレビを見るのは「コンテンツを放映した場所がたまたま今日はテレビだった」以外に特に意味はないように思うので、視聴率という数字もまたほとんど意味をなさなくなっているのだけれど、ともあれ45歳以上はコンテンツがなくてもとにかくテレビに正対することにまだ意味を感じている。何を見るかを決めずにテレビをつけてザッピングしているときに有吉の夏休みをやっていると思わずそこで止まってみてしまう、それが「視聴率が高い」のリアルな意味合いだろう。思えばiPhoneとテレビも似ている。ほかにいろいろある中でたまたまiPhoneというのではなく、とにかくiPhoneの前に正対してそこからどうするか考える。iPhoneの新ナンバリングの発表というのはそういう人たちにとって「有吉の夏休み」的、祭礼的、焼き芋屋さんの巡回的、箱根駅伝的に視聴率が高そうだ。値段が高額だから45歳以上だけ盛り上がっているということだけではないように思う。後期中年はテレビ的マインドの残滓をiPhoneにさし向けているのだろう。

ところでレギュラーメンバーを「ファミリー」と呼ぶあらゆる企画・番組・仕組み・しきたりが嫌いだ。「火曜日レギュラー」とかも気持ちが悪い。番宣で入れ替わる俳優以外に毎回固定で出演するタレントたちを「ファミリー」と呼んでなれなれしくセットにするあれ、どこがファミリーなんだと思う。毎週仲良くいっしょに働く関係なんて家族でもなんでもないだろう。家族というのは、一緒にいすぎると居心地が悪いとか、効率のためにしかたなくセットになっているけれどお互いの心まで癒着しているわけではないとか、もっとずっとドライで容赦ない概念だ。「ずっと仲良し」というのはカップルであってそれは家族ではない。「仲良しなこともけっこうあるよ」くらいがリアルで平均的な家族の姿ではないか。そういう意味でいうと、まさに「iPhoneの新作が出たらTLで自分と同じくらい騒いでるやつ」なんてのは、本当の意味でのファミリーの距離感かなと思う。そのへんでうろうろされても別に不快だとは思わないがとりわけいつもチェックして追いかけているというほどでもない、長年連れ添ったパートナーや親子兄弟のような相手が、iPhone新作だといって妙にテンション上がっているのを見て、ったくしょうがねぇなーみたいな気持ちになるこれって家族に対する感情でいいじゃないか。もっとも、「iPhone 16出ましたね! もちろん買いますよね! 買わないなら盃を返すということですからそれはつまり切腹です」というマフィア的ファミリー感覚で盛り上がっている人もいるにはいるがそれは少数派だろう。iPhone新作に仁義のあるなしを語る人間は減ってきた。iPhone新作はもっとずっとファミリアだ。いつもはお互いにわりと積極的に無視していて、なんなら軽くいがみあっているような間柄でも、iPhoneの新作が出ると同じ話題で盛り上がっているのがわかって、ああそれって家族みたいなすてきな関係ですねと思ってほっこりする。今、私はiPhoneの話をしながら家族愛の話もしている。iPhone、なんてすばらしい商品なんだろう。iPhoneは令和に生きる私たちが忘れかけている家族のぬくもりを思い出させてくれる。正月の宴会で玄関に吐き散らかして親戚の子どもの靴を汚したことを何年経ってもねちねち言われてつらいから正月には実家に帰らないことにした、と言いながら、親に内緒で仕事をやめて投資で生計を立てている元同級生のことを思い出す。彼はiPhoneの新作が出るたびに買ってFacebookに毎回自撮りを載せる。彼だけが年をとりiPhoneの見た目は基本的にサイズとカメラの個数以外あんまり変わっていない。変わらないものを真ん中に据えて「また進化した!」と騒ぎながら本人ばかりどんどん老けていく。ああ、家族みたいだ、ほっこりする、iPhone、なんてすばらしい商品なんだろう。

ユニクロのサブスクがあれば残りの人生のストレスが半減するはずだ

内田百閒の『ノラや』は中公文庫にたくさんの古本があるのだが(新刊もあるだろうが)、最近、中央公論新社より『愛猫随想集 ノラや』として2000円超えの単行本になって再販された。再販というか、サザエさんに対する「よりぬきサザエさん」みたいなもので(このたとえが令和に通用するのだろうか)、元本のどっぷりみっちり猫猫したエッセイの中から8編を選んで掲載したものであり、商魂たくましくお得感のない割高本である。しかしそれでも装丁や口絵(なにを載せているかは秘する)がよくて私としてはわりと満足している。まあ金を出して買ったからひいきをしているのかもしれないけれど私は今回の買い物に満足している。

内田百閒をこれまでぜんぜん読んでこなかった。そもそも昔の作家をほんとうに読んでいない。「教養のなさ」である。昔の文章というのは、往々にして、昔のマンガの絵面とおなじで、今となっては読みづらい。すぐれた先達に影響を受けてさらに洗練された作家に感銘を受けてそれをさらに超えるべく努力の末に生み出されたものが今の本屋のラノベ棚に並んでいる。そっちのほうが読みやすいし平均的なことを言えば含蓄だってあったりする。古典名作は当時読むから名作なのであって今読んでもだめ、みたいなことはたしかにある。しかし、やっぱり、内田百閒の書くものはしみじみ心に桃の皮みたいに刺さってきて、私は思わずバスの中で読みながらもらい泣きをしてしまった。人がいいと言っているものをもっと素直に読むべきだ。古典はいい。小説を読んだことがなかった32歳がはじめて本を読む企画が先日本になってホクホク読んだがそこでも同じことを思った。太宰も芥川ももっと読めばいい。これまで読んでこなかったといって後悔する必要はない。これから読めばいい。青空文庫でだっていくらでも読める。とはいえ私の性格的にはちょっとでもいいから金を出して入手したほうが読む気になるんだろうな。



西日本新聞というおよそ今の私となんの関係もないローカル紙のオンラインを有料購読している。月額1100円。Spotifyは無料で使い続けているしNetflixにもまだ金を払ったことがないのに西日本新聞は購読している。理由はもともと豆塚エリさんの文章が読みたかったから、なのだが、豆塚さんの文章が載っていなくても、遠い土地の新聞を購読するという歯がゆさがそれなりに楽しくて、今も契約を続行したままだ。偏差だなとは自覚している。

西日本新聞からはときどきメールマガジンが届く、あらゆるメールマガジンの担当者は空間のクレバスに落ちて別次元にふっとばされればいいと日頃から真剣に願い神仏に懇願しているが、西日本新聞のメールマガジンだけはたまにヘッドライナーを読んだりリンク先を読みにいく。重ねて言うまでもないことだがこれはべつに西日本新聞が特段優れているからとかメールマガジンに伝説の書き手がいるからといった前向きな理由ではなく、「人生の太い幹とは別になんとなく間引きせず残しておきたい脇芽」という風情で残しているだけのものである。

で、今日、そのメールがさきほど届いて、タイトルに

「まれに見る大ホームラン」

とあった。大谷翔平かそうでなければ今の時期だと山川穂高あたりの話だろうなと思っていると続く言葉が「北九州市の資さんうどん、240億円大型取引の舞台裏」だったので不意を突かれて大笑いしてしまった。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1256600?utm_source=daily_newsletter

そうかそうか。そういうホームランもあるよな。本文はきわめてふつうの経済×社会ニュースであり特段おもしろいことはない。おもしろいことはないのだが私はなんだかこういうのを毎日でなくともたまに金を出して読むというのは案外いいものかもしれないなあと感じた。まあ金を出して購読しているからひいきをしているのかもしれないけれど。


なんでも無料で読める時代になぜ金を出してわざわざ読むのかと考えると、うーん、なりゆきというか気まぐれという理由が大きいなとこれまでは考えていたし、たぶん私の心の底から引き出される理由は今もそれと大差ない。ただ、意図とはべつに、結果的に役に立っていることがある。それは、「金をかけてコンテンツを入手することで、ほかにあるたくさんの無料コンテンツを間引き、自分が向かう先を『限定』することができる」ということだ。SNSでだらだらとウェブ漫画を読み漁り、YouTubeでお気に入りのVtuberを延々と検索していると、いつしか摂取する情報が脳の一日のキャパを越えていて、翌朝目覚めると結局昨日はなにをしたんだっけ、タタミイワシみたいに敷き詰められた情報が色彩をうしなって真っ黒につぶれて見えるような気がして、ああなんかいっぱい見たな~、まあ時間はつぶれたからよかった、チャンチャン、となってしまう。一方、金を払ってなにかを入手すると、ほかに無料のコンテンツがたくさんあっても、「とりあえずもったいないからここから読むかな」というように、自分の中に優先順位が生まれ、無限の情報がキュンと刈り込まれて有限化され、360度に張り巡らさなければいけなかった視野が前方30度くらいにしぼりこまれる。それは端的に言って「いいこと」なのかもしれないなと思った。資さんうどんのニュースなんてちょっとも興味なかったけれど私はあの記事を読んでよかった。ただ書いてて思ったけどサブスクはその意味では、金を払うことで自分の持ち物にするという感覚を半減というか10分の1くらいにしてしまうよな。サブスクってほんと堕落した仕組みだよな。

ところかわればそめかわる

バイトに来てくださっている若い病理医は「大学とは見た目の違うプレパラート」を見てご苦労なさっている。診断を終えて私がチェックするとき、メモ欄に、「大学とは見え方が違うので自信がないですが……」などの注意書きがたまについているのだ。

染色する技師や機会や試薬が変われば、プレパラートの見た目も変わる。核が濃く見えたり、細胞質と核のコントラストが違って見えたり。染色液なんて統一化して合わせればいいじゃん、というほど簡単ではない。細胞を染色する前には「薄切」という行程があり、組織を4 μmくらいにかつらむきして、ペラッペラにしてガラスに乗せて染色をするのだけれど、この薄いペラッペラが4.2 μmなのか3.9 μmなのかによって微妙に見え方が変わってくるのだ。厚みがあればそれだけ染色によって染まる部分にも違いが出るから当然であろう。

薄切を仮に全自動機械化したとしても、厚さは変わってしまう。組織そのものの硬さによって薄切の微妙な具合が変わってくるからだ。組織の中に固いもの(例:石灰化成分)などがあれば薄切のときにそこにブレードがひっかかることで厚さのむらがでてしまう。これを手作業で整えていくのはまさに職人作業である。そして職人であっても標本ごとの染まりの違いを完全に揃えるのは不可能だ。

この染色性の違いをAIで補正するという動きもある。病院ごとに異なるプレパラートの色味をAIが読み取って毎回おなじ見え方に修正してくれるというのだ。一部のバーチャルスライドでは実装されている。でも、はっきりいって、その補正はまだまだ甘い。

贅沢をいえばきりがないのだけれど、プレパラートの差はどうしても出てくる。同じ施設の中でもあるくらいだ。したがって、私たちは、「ある程度、幅がある細胞の見え方」というものに慣れていく必要がある。

毎回すこしずつ色味が違うにもかかわらず私たち病理医がある程度のクオリティを保てているのはなぜか? それは、脳の補正機能がAIを超えるくらい優れているから……と言えばかっこいいのだけれど、実際には違うと思う。正解は、「濃ければ濃いなりに、薄ければ薄いなりに診断するメソッドを手に入れている」からである。色味を揃えるのではなくて異なる色味ごとにどう対応するかを微調整しているのだ。

「濃く見える施設のプレパラートでは炎症性の異型が癌っぽく見えるから注意する」とか、「粘液が青っぽく見えない施設のプレパラートでは細胞外に漏出した粘液そのものを見落とすことがある」とか、「うちの病院ではH&E染色でピロリ菌が見えるけどそれがいつもどのプレパラートでも可能だと思うな」とか……。

「胃底腺粘膜を観察するときには必ず壁細胞と主細胞を見分けたほうがいいですよ」というと、「えっ、主細胞ってよくわからないんですけれど……」と返事されることがある。いやわかるでしょと思ってそのご施設のプレパラートを借りてみると、たしかに、染色のあやによって、主細胞と偽幽門腺化生の細胞の色味がよく似ていたりする。

ああほんとですね、このプレパラートだと色味では判断できないですね、と納得しつつ、「色がだめなら形で見ればいいんですよ」とばかりに、そのプレパラートを使う際の細胞の見かた、みたいなものをきちんと伝授していく。



先日ある場所で聞いた話で、いずれ原稿になるので詳しくは書けないのだけれど、病理学的にとある細胞を見極めるためには「5つのヒント」があるとおっしゃっている先生がいた。私はそれを聞いて、「5つか! 5つは多いな!」と感じた。私自身がその細胞を日常的に判断するにあたっては、おそらく3つくらいのヒントですばやく細胞の判定をしてしまっている。しかし、残りの2つを見てみると、それは「色身」のようなプレパラートの条件によってかなり変わるものではなくて、もっと一般化しやすい、検者間格差のあらわれにくい、「はっきり言語化しやすい形状について」言い表しているのだ。なるほどと私はうなった。その先生は、つまり、いろいろな施設のさまざまな染色にあわせて、どんな病理医であってもこの細胞を間違いなく判断できるようにヒントを5つ用意することにしたのだろう。自分の慣れた場所、ホームグラウンドで診断するなら5つも要らないのだ。しかし、病理医は、たまに自分の施設以外で作られたプレパラートも見なければいけない。そういうときに、「チェック項目が多い人」のほうが、異なる染色条件にスッと適応できるのだろう。




バイトに来てくださっている若い病理医は「大学とは見た目の違うプレパラート」を見てご苦労なさっている。診断を終えて私がチェックするとき、メモ欄に、「大学とは見え方が違うので自信がないですが……」などの注意書きがたまについている。私はそれを見るたびに、いずれこの方も、どんな病院のどのようなプレパラートを見ても判断ができるような病理医に育っていくのだろうなと思って、少しでも研鑽のお手伝いをできればなという気持ちになる。