食材は同じでも

目覚めて久々に「もう朝か」と思った。新しい職場の仕事の圧は強く、腹は凹み、目は落ちくぼみ、右手の親指の爪の横の部分から表皮常在菌が皮下にもぐりこんで膿瘍を形成した。しかしこれだけ疲労困憊であちこちガタが来ているのだけれど飯はうまい。有給の取得日数が足りず出張のたびに給料を引かれるシステムの懸念は尽きないが、年下の先輩が切り出す手元をじっと眺めているとその合理的な角度、目のさばき方、どこまで記憶してどれを口ずさみどこからを書き込むのかのバランスなどいずれも見事でほれぼれとしてしまう。悪いことといいことが混在する。形質混在。私は形質混在を見抜くことを仕事の真ん中らへんに置いている。そのように、自分もなった、ということなのだろう。あるいは今までも十分に混在した生活ではあったのだが、長年同じ場所にいたことで、細かく秒刻みで自分のありようを場に応じて切り替えることができるように順応しており、それが異動に伴ってリセットされて、本来のしんどさに回帰した、ということなのかと思う。

ともあれ最近は飯がうまい。自分で作る飯が特にうまい。とはいえこれらはすべて家人の見様見真似なので私が偉いわけでもすごいわけでもなく配偶者が偉大なのだ。同様のことはあちこちの仕事場でも経験される。さほど年数の高くない若手が妙にしっかりした診断を書くなあと思ったとき、その界隈で本当に優れているのはそいつに背中を見せていた病理医のほうなのだ。料理と病理の違いくらいであとはまったく同じ構造だと思う。


紙ゴミをまとめるための段ボールがほしい。

共有スペースのゴミ箱までいちいち捨てに行くのが面倒なのでデスクの脇にもゴミ箱を用意したい。

ストラップひとつだと不便だ。IDカードとスマホ、それぞれにストラップがほしい。

はさみがない。

これらすべて、おそらく、事務担当の方に告げればそのうち手に入るのだろうと思うが、それを待つだけの余裕も気まぐれも存在しないので今週末自分で買いに行こうと思う。


ほぼ日手帳を遅まきながら購入。今年の「おまけ」はいつもの書きやすいボールペンだけではなく、ロボットのかたちをしたペーパーウェイトであった。職場でこれを使う場所がないのでひとまず家に持って帰って、キッチン横においてあるメモ帳の上に暫定的に載せておく。異動の前後でこのメモをずいぶん使った。まだしばらくは使うから、このロボットも、当分の間は私によってつまんでもちあげられたりまた置かれたりを繰り返すことだろう。


夜もだいぶ遅い。もう寝たほうがいい。明日は出張だ。しかし気が高ぶっていて、髪もまだ乾いていなくて、ベッドに入る気があまりしないのでこうしてブログを書いている。順応していない日々、ままならないことがたくさん増えて、あの学生も、あの新社会人も、みんなこういう気持ちになっているんだろうなと、今更ながらに私は自らのここんとこ5,6年がいかに恵まれていたのかということを思い知る。同じ場所にずっといたほうが人間ってラクなんだよな。それでも、飛び出していってしまうのだから、始末に終えない。なにより、近頃は飯がうまいのだ。同じところにずっと通っていて食っている飯は毎日同じ味がしていた。今は、違うのである。

初日が出ました

前の職場のとある内科医が餞別にとLIFEBOOK UH keyboardをくれた。びっくりした。私がHHKBを持て余しているのを見ていたという。あのキーボードは高かったのだがキーの配置が極めてMac的で、長年Windowsを使ってきた私にとってはなかなかしっくりこなかった。半角と全角の切り替えやかな入力にヒイヒイ言いながら原稿を書いていた私を苦笑しながら眺めている人は幾人かいたが、まさか退職のおみやげとばかりにキーボードをくれるなんて。「中古だから気にしないでください」とのことで「とはいえお高いんでしょう?」と思って検索をかけてみると実際たいした値段ではないのだ。それがかえってありがたかった。私の後任の病理医は私よりも専門性が高く、かの内科医にとってみれば私よりもよっぽど頼りになる新任がやってきたということで、もはや私にかかずらっている場合ではないと思うのだが、心遣いがうれしい。

というわけで新しいキーボードを接続し、前の職場で使っていたデュアルモニタを復活させてこれを書く。快適。順調。すいすいだ。ここしばらく使っていたノートPCのキーボードよりも「小さい」ことがちょっと気になるけれど、順応は早そうだ。よかった。ありがたい。


今度の職場は今までの職場よりも1時間45分早く職員玄関がオープンする。IDカードがあればなんとでもなるのだが、そういう一手間をかけなくともすいすい入れる時間がこれまでより長くなるというのはとてもありがたい。初日の出勤、うきうきしすぎて、予定よりも2時間早く到着してしまった。まだIDカードをもらっていない。駐車場のパスカードもまだだ。おまけに現時点でルーティンのローテーションにまだ組み込まれていないからこんなに早くやってきてもあまりすることはない。事務的な書類をいくつか書く。


……いくつか? いくつかかな? 少しぞっとして確認する。それなりにある。それなりだ。引っ越しよりはるかに簡単だ。こういう事務仕事はひるんでいる暇に少しでも進めていく、とまどっていても手足だけは動かす、それがなんらかのコツなのかなという気はする。このコツがあったからといって魚がうまく焼けるわけでもないし足が長くなるわけでもない。放射線業務従事者の申請を出してください。えっ、これまで22年間使ったことがないけどこの申請ほんとうに必要なの? とかいろいろ考えずにとにかく言われた通りに書く。考えてはいけない。反応するのだ。それがAI時代の正しい人間の生き残り方である。LLM時代だってことは十分にわかった上でこの文章を書いています(人力で)。

感情囲繞

クッキングシートを使ってシャケを焼いたら脂がいいかんじでまわりのキノコとなじんで絶妙にうまい料理になった。ピーマンの種もろくにとってなくてかろうじてヘタを外しただけ。ブナシメジだって洗ってやしなくて石づきを切り落としただけ。シャケに至っては味付けゼロだ。それでうまいのだから笑ってしまう。食後にはお茶など入れてみた。明日は梨を切ろう。週末には妻に料理の練習をしてほしいと伝えて約束をした。新生活で考えることが多い。メールアドレスも変わった。顕微鏡も変わるのだ。デュアルモニタもどう配置したものか、まだ出勤していないから、私の車の中にはアームのつながったモニタがそのまま積んである。

気忙しい。夜もぜんぜん眠れないのだ。興奮している。ああ、お茶を飲んだからじゃないのか?

本を並べ替えたりCDを並べ替えたりもする。レコードプレイヤーを買い直す気にはならなくて、Zの「御壁」はさすがに部屋の単なる模様になってしまっているけれど、今朝はひさびさにSmooth Aceをかけてみた。大学院時代に持っていたCDの多くは紛失したがなぜかこれは残っていた。そういえば高校の同級生で青山に行った男がLOVE PSYCHEDELICOの一年後輩だと言っていたなと急に思い出す。彼はあやしい医学にはまり、そういうのにどう対処していいかわからなかったころの私は不機嫌になってそれっきり没交渉になってしまった。SNSではそつなく人をこなしていけるのに、なぜこうも、リアルだとうまくいかないのだろう。

壊れていたCDが直っていた。昔、これをかけたら必ずこの箇所で音が飛ぶ、その飛び方ばかりが記憶に残っていたあの曲が、なんのひっかかりもないまま……と思ったら昔とはちがうところでやっぱり音が飛んだ。おもわずキータッチする手をとめてニンマリとする。

さあこれからの話をしよう。

まず私は勉強をしようと思う。それも猛烈にだ。極く集中してこれまで診断してこなかった臓器についてもしっかり人並み以上に会話ができるようになりたい。診断くらいならなんとかできる、目指すは臨床医とまともに治療の話ができるくらいまで練り上げることだ。次に、新たに胆膵領域の勉強会に二つ出ることになった。これは縁がつながったとしかいいようがない。本来18年前からやっていてもよかったのだがつながるのにそれだけの時間を要したとも言える。ようやくたどりつけた、という気もする。そして消化管病理の世界、そろそろ大きい仕事に取り掛かろう。人を集め、その真ん中で存分に踊るべきである。遅いくらいだ。しかしまだ定年まで17年ある。私はちょうど、今年、折り返しだ。ならば遠慮はいらないし尻込みしている場合でもない。そういうことをきっちりやりつつ、病理学全体を包括する原稿をいい感じで温めてきた、これをあと1年で書き終わろう。今の新しい生活はこの原稿を確実にふしぎな方向に引っ張っていく。自分の指から想像もつかない文章が出てくる瞬間をじりじり待っていた。これは、おそらく、書けるなという予感がある。ついでに新しい教科書にも着手する。これも縁あって声をかけてもらった。教育的な本というのは自分が学ぶために書くものだ、少なくとも、今の私にとっては。

よし、これからの話は十分だろう。いよいよ過去にこだわることに戻ろう。

高野雀のマンガ『13月のゆうれい』が不思議だった。余韻が長い。もはや私の息子・娘であってもおかしくない……というと言い過ぎだが、息子・娘の先輩、くらいの年齢の男女がそれぞれ微妙な恋愛をする、みたいな話で、読み始め、私は一切感情移入できないだろうなとぼんやり予想していたのだがさにあらず、なんと、移入はしないが囲繞をするのである。十重二十重に取り囲んで大事に守ろうとするのだ。なんておもしろい読書なんだ! そんなことがあるとはなあ。親目線、とまとめてしまうとニュアンスがちょっとずれる。どちらかというとオタク言うところの「壁目線」なのだろうが、しかし、登場人物たちをハラハラと包み込んで大事にしてやりたいと感じている自分の心の動き方に、ああそうか、今の私は、もしかすると機嫌がいいのだな、と思った。ちなみにまだ退職金が入っていない。

すばらしい日々

ぐっと肌寒くなり窓の外がなんとなく灰色ベースだ。グレベ。午前中はだいぶ風雨が強くてうんざりしていたけれど、今はすこし穏やかそうに見える。短い秋に所在なく、壁のマグネットの角度を整え、ケーブル類のほこりを落とし、カレンダーを丸める。明日で退職だ。病理の自室では、手元の筆記用具とオンライン会議用のヘッドセット以外、すべてを片付けた。医局の机はすでに完全に片付いており次の医師を待って空虚になっている。

かつてクラファンに用いたメールアドレスに思想の強そうな映画の告知が届いた。

やることが少なく、今日、手持ち無沙汰だ。依頼された原稿は複数あるが、さすがに今の腰掛け的な環境で、原稿を落ち着いて書くことは難しい。あと数週間は塩漬けにする。これは依頼を受けたときからいちおう計画していた。とはいえ心の積荷が軽くなるわけではない。

ノンシュガー果実のど飴の成分表示を見たら、ひとつぶ4.3 gあたり糖質が4.25 g含まれていると書いてあった。還元水飴の成分はほぼ糖質、なるほど。ではノンシュガーとは何なのかと思うわけだが、そこは無論、「糖質 糖類 違い」みたいな話があって、デンプンとショ糖はちがうだろ、みたいな議論がはじまっていく。途中から興味をなくす。理路整然と書かれた「正解」ほどつまらないものはなく、読み方によって多様な意味が飛び出してくる文章じゃないと眠気に勝てない。

学会から登録してある職場情報を変更をせよとのメールが届く。

プロキシを通さないと送受信ができないメールを18年使った。病院を出たらもうこのアドレスは使えない。3か月ほどかけて、各方面に、これからはGmailに送ってくれと連絡を飛ばし続けた。その甲斐あって、今日、ほぼ、Gmail以外にメールは来ず。かわりにスマホが1日中震えるようになり充電が持たなくなった。来週は機種変更をしよう。月、火、休みが2日ある。有給はあと21.5日残してしまった。退職が決まった日にはたしか45日残っていたから、ここしばらくで、だいぶ使った。学会があれば有給、荷物が届けば有給、車検で有給、美容室で有給。これくらいのほうが暮らしやすいと知ったころにはもう退職だ。

マウスを落とした。日々が入った。

白衣の返却。これ、仕事中にはほとんど着なかった。院内の食堂に飯を食いに行くときには必ず着用した。ふつう、白衣というのは仕事で汚れるので、食堂には着ていかないというのがマナーとされるらしい。しかし院内で私の仕事はそれなりに知られており、「あいつの白衣は別に汚くない」ということもそこそこ周知されていたようで事なきを得た。新しい職場で支給されるスクラブや白衣、できれば着ないで過ごしたいが、そのようなわがままが通る職場なのだろうか。まだそのあたりのニュアンスは、誰にも聞けていない。

来し方をおしはかり行く末をふりかえる

まあちょっとめでたいっちゃめでたいのかな、と思ってビールを買った。近頃は「金麦 75%オフ」しか飲んでいないのだがひさびさにキリンのラガーにした。味が濃い。主張が強い。途中でいやになってしまった。私はもう味の濃いビールはそんなに好きではないようだ。金麦のスッカスカの炭酸水みたいな味がちょうどいいようである。体の周りに生えていたトゲがどんどん取れて、代わりに毛玉がぽこぽこついて、それはまるで大長編ドラえもん・のび太の恐竜に出てきた「キャンピングカプセル」のような感じで体表面に生息している。周囲を傷つけることなく、自分が少し貧相なかんじになる、そういう変化がきっちりじっくりと私を包んでいる。ビールがどうでもよくなる日が来るなんてな。

かつてのあれは、今ならどういう味に感じるのだろうか。懐かしい料理をいくつか思い出す。たとえばカネサビルの2階の奥の「つくしん坊」の米々チーズ。かますチャーハン。「ばっぷ」のコーヒー焼酎。マイヤーズ・ラム。歴々。面々。雰囲気も味も覚えている、忘れたことなどない、しかしこれらは、きっと、25年かけてぐいぐいとゆがんでいる。水曜どうでしょうをかつてテレビで見ていた、あのころの画質をたとえばYouTubeなどを駆使して現在のモニタに映し出すと「こんなに汚く粗かったのか」とびっくりしてしまうわけだが、記憶の中の感覚というものは経年美化してバランスも整えられ色彩もうまいこと調節されている、そういう味わいの数々を今の私が口にしたら果たしてどういう感想を持つのだろうか。

あのころ別にうまくも感じなかったブランデーを今飲むとおいしく感じてしまうのだろうか。


解剖に関するちくまプリマー新書を読んでいたら懐かしい話が出てきた。脳神経、12本の覚え方、というやつである。私は長年、「嗅いで視て、動く車は密の外、ガンジー絶倫冥福でっか」とおぼえてきた。嗅いで=嗅神経、視て=視神経、動く=動眼神経、車=滑車神経、密=みつ=三叉神経、外=外転神経、ガン=顔面神経、ジー=内耳神経、絶倫=舌咽神経、冥=迷走神経、福=副神経、でっか=舌下神経。しかしものの本にはどれも「ガンジー絶倫」とは書いていなくて、「顔耳のどに迷う副舌」とか、「顔聴くのどに迷う副舌」みたいなものばかりなのだ。たしかにガンジー絶倫はちょっとどうかと思うが、「副舌」なんてもはや覚え方でもなんでもない、音というかゴロだけのフレーズではないか、つまらない。じつは絶倫であったガンジーが天寿を全うしたんでっか? と大阪のにくめないおっちゃんが疑問形でたずねている空気がいいのに。なぜこれは流行らなかったのだろう。私が作った語呂だが北海道大学の後輩にもきちんと伝えたはずなので、27年とか経てばとっくに全国に広まっていてもおかしくなかったのに。私の本来の影響力なんてのはその程度のものなのだろう。


昔のことをつらつら書いているとブログというのは書けてしまう。しかし、本当は、現在のこと、そしてちょっと未来のことを書いたほうが、世の中的にはウケるしPVも伸びるし金銭的なうまみも出てくる。じっさい、あちこちのnoteやブログを見ると、売れっ子の書くバズコンテンツは基本的に現在や未来のことで構成されており、過去に触れられているとしてもそれはあくまで「現在につながる思考の枠組みや骨組みを取り出すための素材」として取り上げられているにすぎない。過去そのものが茫漠と霞んでいくときの、風がきしむようなさみしい音、そういうものをもっと読みたいと思うのだけれど、バスを待つ夜、飛行機の中、スマホをフリックして次々と読み捨てていく記事のどれにも、後悔だけで紡がれたきれいな織物や、韜晦だけで彫られた鋭い観音像などはちっとも出てこない。それは私たちがまるで、かきすてながら、かきすてながら、暮らしてしまっていることの証明なのではないか。それでは私たちはあたかも、誰にも気づかれないところで瞬間的に明滅する、月も出ない秋の夜の遠雷のようではないか。