脆弱

寝苦しくて夜中に目が覚めるせいだろうか日中もなんとなくぼうっとしている。そういう日に限って朝から電話が鳴り止まない。ちかごろ、ほかの病院や大学の病理の現場を見て思うのだが、普通の病理医はこれほど電話を受けないようである。先ほどからジャンジャンかかってくる要件の中には、これは私ではなくて受付の方の業務だろうと思えるようなものがあるし、病理診断とはあまり関係のない案件の相談(例:看護師の教育、ネット回線の工事)とか、「そういえばこないだの症例ってあのあとどうなりました?」のようなメールでやれ案件も混ざっていて、つまりみんな私に対して遠慮がないのだろう。悪いことではない。おかげで目が覚める。電話のおかげで私は覚醒した状態で仕事をできている。みんなに起こされている。ありがたいことである。


中皮に対して炎症細胞が躍起になって攻撃する病態はありえるのだろうか。やけに泡立ちのよい胞体を示す腺腫は通常の腺腫とは切り分けて考えるべきかもしれない。膵臓でsquamoid cystと呼ばれているものは腹膜だとinclusion cystの中に含まれてしまっているということはなかろうか。女性にしかないはずの疾患を男性にみつけてしまった場合は疫学と診断学のどちらが間違っているのだろうか。学会のホームページの改修プロジェクトのこと。単位も講習会も取るだけ取って結局試験を受けに行かなかった分子専門病理医資格のこと。研究会の病理解説用に関連症例をどこまで提示するか。Researchmapの更新。電話が鳴る。取る。切る。診断がわからなかった免疫組織化学パネルの結果を見て教科書を調べていた先輩が、私の思いもつかなかった病名をあげたので二度見して、教科書の該当ページを覗き込むとかつての私が貼った付箋がペロペロになってそこに鎮座していた。ギャー思いもつかなかった負けた! SALL4陽性腫瘍をすべてenteroblastic differentiationと診断することに一抹の不安。生検でbronchiolar adenomaとadenocarcinomaの鑑別を完全に執り行うことは本当に可能なのだろうか。Borderline malignancyという言葉を使っていい臓器と使ってはいけない臓器があることをどう考えるか。Bowenoid AKと露光部Bowenとは本当に同じ病気なのだろうか。電話が鳴る。取る。切る。胃底腺型腺癌の表層にみられる腺窩上皮に異型があったらそれをすべて胃底腺粘膜型腺癌として報告すべきかという場面でまず背景粘膜の再生状態に目がいくのは当然のことなんです。虫垂の根部によく糞石が嵌頓しますがどうして端部には嵌頓しないんでしょうか、それは、端部のほうが奥だからなあ、あんまり学術的じゃないですね、ごめんねプラクティカルで。電話が鳴る。切る。取る。逆だ。かけなおす。電話中である。


医局でたまたま見かけた医者の横にどかっと座って昨日の症例の話をする。何気なくうーんと背中を反らせたらずいぶんといい感じでリクライニングするのでうらやましくなる。医局の椅子のほうが私のデスクにある椅子よりも性能がよいじゃないか。嫉妬。この病院に勤めて17年になるがいまだにコクヨの中くらいの椅子を使っている私は、もう少しオフィス用品に対して厳しく監査をする目をもったほうがいいのだろう。でもコクヨで困ることはない。コクヨは必要十分な相棒であった。病理診断をするにあたってアーロンチェアは必要ない、顕微鏡を見るときには背もたれから背中が離れて前のめりになっているし肘置きだって使わないのだ。アーロンチェアの質を自慢するタイプの病理医は基本的に顕微鏡をあまり見ていない。ネットにたまにいるだろう、気をつけたほうがいい。もっとも、ちかごろは、デジタルパソロジーシステムによって、顕微鏡像より美麗な画像をPCのモニタに投影できるようになったから、あと10年もすると病理医の椅子が次から次へと高性能のアーロンチェアやゲーミング椅子に置き換わっていく可能性はある。


「可能性はある」みたいな文章を書くのがいやになった。「矛盾しない」「否定できない」「了解可能である」といった言い回しは病理診断に頻出するがそこでぼかしたところで病理医としての仕事のクオリティは高まらない。迂遠になったぶんミスリーディングを誘うこともある。えてしてそういう微妙な所見を書くのは「若い病理医」……ではない。近頃の若い病理医たちは揃いも揃って病理所見の書き方が上手である。危ないのはベテランの病理医のほうだ。私たちは少しずつ置いていかれる世代となっている。まだまだ勉強することはいっぱいあるんだけど、勉強できる時間がじわじわと減っていて、脳の余力もじわじわと減っていて、いや、まだまだ、ここからもさらに進歩できる可能性はある。生涯教育を遂行できるタイプの病理医として矛盾しない。しかし勉強した先から忘れていくタイプの病理医である可能性も否定できない。さまざまな可能性がありうるが病理医のバリエーションとして了解可能である。

どうして竿だけ屋を見かけなくなったのか

「割に合わない」というときの「割」とはなにかと思って調べている。しかしGoogleではどれが正解なのかよくわからない。「割を食う」の割といっしょですよと言われてもなんというか……うーん……だからそれは結局なんなの。割合の割ですよ、うん、となれば、割に合わないってのは割合に合わないって意味になるわけだよね、それって、合うのかい、合わないのかい、どっちなんだい。

そういうことが知りたいわけではないのだ。

言葉ができあがってきた歴史、人びとの間でどのように使われてきてどのように変化してきたのかという流れ、どのへんの使い勝手がよいから現代にまで残ったのか、ほかにもっといい言葉がなかったのか、喉を通過したときの感覚や字にしたときの見た目がよかったのか、そういったことを懇切丁寧にチンタラ語ってくれる場所がないのかと探している。しかし私のプロンプトがよくないのか表面的な回答に終わっていて満足までたどり着くことがない。若い人ならもっと上手に検索でたどり着けるのだろうか。中年はハルシネーションを起こしそうだ。


病理診断にもそういうところがある。


「この細胞は、どうして癌といえるのですか?」と研修医から質問されたとき、ほら、核がでかいでしょう、クロマチンが多いでしょう、不同性が強いでしょう、核小体が目立つでしょう、とひとつひとつ所見を解説して、「ね、このように悪性の所見がいっぱいあるから癌なんですよ」と胸を張る。それはまあそうなのだ。しかしそれがなんだというのだ。研修医の疑問は本当にそこで終わるのか。上司が「こうだからこうなんだ」と胴間声で断言するから萎縮した若者が「なるほどわかりました」と言っているだけでじつはぜんぜん納得していないということは十分にあり得るのではなかろうか。

「核がでかいとなぜ癌なのか」という疑問だってあるはずだ。「不同性があるとどうして癌なのですか、だって炎症でも核の大小不同は出現するでしょう?」この質問に答えずして研修医の疑問に答えたことにはなるまい。「そもそも細胞のカタチがどうして患者の将来予測につながるのですか?」「それは~統計を取ったらそうだったからです」と応えることは事実だが誠実ではないのだ。

遺伝子に異常が蓄積してコピーナンバー数が過剰に増えると、核内の染色体量が増えて核の見え方が変わる」ということと、それが腫瘍化した細胞の転移や浸潤とどう関係するのかといった因果の話とは別の階層に存在する。これらをきちんとつなげて語れるかどうか。もっと正確にいえば、一つの階層について話をしていくうちに、相手の質問が階層をまたいだものであると気づいた指導者が、いっけね、この階層の話だけで終わらせちゃいけなかったよね、と研修医の前でさらに解説を追加するだけの心の広さを持ち合わせているかどうか。



どうして織田信長は天下統一する前に死んじゃったんでしょうね。それは明智光秀に裏切られたからだよ。こういったやりとりだと、「じゃあどうして明智は裏切ったのか」とか、「明智ひとりが裏切ったくらいで簡単に命を落としてしまう織田の警備体制はどうなっていたのか」とか、「むしろあそこまででかくなる過程でもっとたくさんの人に恨まれていたはずなのに殺されずに生き残れた織田の危機管理力はめちゃ高いはずなのになんで明智のときだけ」といったように、まだまだ質問は終わらないはずなのだ。でも医学の話だと、もっといえば病理形態学の話だと、「核がでかいから癌ですね」で終わらせようとする人がちらほらいて、いや、それ、上下関係で質問を抑え込んでいるだけなんじゃないかなあ、と心配になるのである。

脳だけが旅をする

鼻につく~相手だ~お~ん~な~の~こ~。韻があっているだけの替え歌を歌っているとそんなコンプラ的にアウトな歌を歌うのはやめなさいと言われてしょぼんとなる。意味なんてどうでもよくてただ韻が的確にハマっているかどうかだけで楽しんでいる……といくら言っても世間は許してくれない。意味というのはそれくらいに重い。意味は私たちにとって中核である。現象そのものを楽しむということは事実上むりだ。最初からそこにあるものではなく、あとから湧いて出た意味のほうに、いつでも私たちはかかりきりにならなければならない。

みたいなことが、京極夏彦『鵼の碑』に書かれている。今は半分くらい読んだ。あと半分残っている。だからこの先を読むとまた違ったことが書いてあるのかもしれないが。京極作品は分厚すぎて基本的に正月にしか読めないので、新刊が出てもしばらくは読めずにいたのだけれど、ここんとこ出張が連続するので、移動時間の間に読めるじゃないかと気づいて購入した。あっという間に京極夏彦の世界に入れる安定感。あいかわらずなのがうれしい。百鬼夜行シリーズ30周年記念と書いてある。パワプロといっしょなんだなあ。大谷翔平と同い年か。

30年前、私は16歳、『姑獲鳥の夏』を読んだのは高校の授業中であった。

私はその年、なぜか教室の一番うしろの席になることが多く、そして隣にはこれまたなぜか高確率でバスケ部のキヤという男が座ることが多かった。キヤはスラムダンクの河田弟のような体型のいかにもバスケットマンといった風貌で頭の回転が早く人気者で学祭ではステージでなぞのモンキーダンスを踊るなどの茶目っ気もあったが私との交流はさほどなかった。そのキヤは、自分の席が教室の最後尾になると決まって授業中に本を読む。それはマンガのことも多かったが字の本のこともあった。赤川次郎を読んでいると思えば芥川竜之介を読んでいることもあったように思う。あるいは五十音順に読んでいたのかもしれない。私はそれを見てなるほどいいものだなと思って、自分のさして興味のない授業、たとえば地理とか生物といった、社会人になってから役に立つから覚えておいたほうがいいよと世間の無責任な大人たちがよく圧をかけてくるタイプの授業のときに、教室のロッカーに持ち込んだマンガを取り出してきて読むことにした。キヤから借りたマンガが多かった。『スプリガン』『いいひと。』『H2』とかそのへんだ。私たちは本に没入していたが先生たちは気づいても何も言わなかった。というか気づかれても何も言われないような授業のときにだけ本を読んでいた。数学の関口という教師、無口で朴訥な仕事の鬼が、授業中に内職をしていた学生の頭頂部に黒板用コンパスを竹刀のようにしてゴツンとやって「まじめにやれ!」と一喝したとき私は思った。「まったくだ。関口の授業なんだからまじめにやれ」。そして私は地理や生物の名前の思い出せない教師の前であいかわらずマンガを読んでいた。高校生らしくずるく汚い青春であった。

姑獲鳥の夏は楽しかった。姑獲鳥の夏にも関口という名の男が出てくるのだが、私はこの関口をずっと数学教師の顔で再生していた。数学教師のほうは京極関口よりも姿勢がよかったがどちらも小柄で機嫌が悪そうで古き悪しき理系の「ボソボソ感」に満ちており相通ずるところがあるような気もした。そしてこれは京極関口にはない特徴だと思うが数学関口は板書の字がべらぼうにきれいだった。教え方はうまいかどうかはわからなかったが筋が通っており私の数学の成績はローカルで戦える程度には上がっていた。私は次第にその不人気な数学教師に好感を持つようになり、卒業のときにはほかの教師を差し置いて関口にだけ感謝を伝えに言った。私は高校を卒業した後も京極夏彦を卒業することはなかった。何年かおきに刊行される新作を欠かさず読み、そのたびに数学の関口のことをぼんやりと思い出している。

ところで京極作品には木場という名の刑事が出てくる。私はどうやらこの木場の顔を長いことキヤとオーバーラップさせていたようにも思う。しかし30年を経て木場の顔は少しずつ別の印象で上書きされ、キヤの顔を私は忘れてしまった。木場にはたくさんの意味が付与されていくがキヤについての情報は28年前で止まっているのだから仕方があるまい。京極関口の顔もおそらくもう、数学教師の関口とはだいぶ離れてしまっている。私はあの頃の人びとの顔をどうもよく思い出せない。ありのまま、あのときのまま記憶するのではなく、あとからあとから上塗りされる情報に気を取られてしまったばっかりに、「あったものそのもの」を私はうまく記憶できなくなっている。あるいは、記憶はしているのだけれど、取り出すことができなくなっている。

「スプリガンは―――」
描き方がかっこいい、とキヤは云った。
「ちょっとMADARAに似てるよな」
俺はMADARAのほうが好きかなァ、と云うとキヤは三厘に刈り揃えた頭をつるりと撫でてそうだなと応じた。

顔を知らない医者の場合はてきとうに声優をあてている

スッと時間が空いたので、そうだブログ書こうと思ってキーボードに向かったのだが、それより先にまず、昨日とどいた医学雑誌を読んでおくべきだ。医学雑誌は通読すること、そして、毎月欠かさず読むことが大切である。もっとも、通読といっても適当でよくて、読み飛ばすくらいのスピードでビュンビュン読んでもOK。そのかわり積ん読はしない。最近の世の中は積ん読に対してすごくやさしく、タイムラインには今日も積ん読ばんざい買うまでが読書派がたくさんいらっしゃるし、私も多くの本は積ん読したほうがむしろ味わいが出ると思っているけれど、医学雑誌は別だ。積ん読してはならない。理由はふたつ。


1.積んでおくと情報が古びるから

2.一定の頻度で読むことである種の筋肉が鍛えられるから


たとえば私が購読している『胃と腸』の最新号は「虚血性腸炎の特集」。これとほぼ同じテーマが同雑誌に2013年(11年前)に組まれている。医学の進歩は著しく、10年ちょっと経過すると診断法も治療法も変わるし、なんなら患者の暮らしっぷりや病気になりやすいかどうかといったファクターもずっこんばっこん変わる。したがって今月出た特集ならば今月のうちに読んでおかないとどんどん古くなる。キャッチアップ・アップデートのために購入する雑誌を、買って積んで満足してはだめだ。アップデートパッチをダウンロードだけしてインストールせずにPCを使い続けてどうする。

小説なら10年くらい寝かせておいても楽しく読めるだろうけれど、「じゃらん」の旅行特集を1年寝かせたら観光地は様変わりしてしまう。それと一緒……というと言い過ぎか……、旅行雑誌ほどではない、医学は1年くらいだったら十分通用する分野も多い、でも、5年寝かせるとやっぱり危険だ。観光雑誌ほどではないけれどエッセイくらいにはなるべく早く読んだほうがいい。医学雑誌の特集はnote書籍化エッセイと同じくらい「時代と寝ている」と思ったほうがいい。時代におもねった著者のことをしっかり覚えておいて後年学会や懇親会などで顔をあわせたときに揶揄してやるのだ。「先生2020年の例の総説ではだいぶCOIにご苦労なさいましたねえ笑」。※危険なので真似をしてはだめです


2番目の理由も大きい。いそがしさを理由に本を読まなくなると目と脳がおとろえて余計に本が読めなくなる。私たちは本から少しも離れてはだめなのだ。定期購読システムによって「一定の頻度で送られてくる状態」をキープし、とにかく一定以上の文章を読み続ける。どれだけ忙しくてもこれだけは読むぞと心を強く持つ。そうやって目と脳を維持する。

とはいえ医学雑誌を長年こつこつ読み続けてきたことで具体的になにかの知識を維持できたとか頭が論理的になったとか、「わかりやすいメリット」が発生したかというと、わりとそうでもない。それほどではない。医学雑誌をいくら読んでも一流の医師にはなれない。ファンランナーが毎日ジョギングしたからといって競技マラソン選手にはなれない。しかし、一定の頻度で物を読み続ける行為によって別様の何かがもたらされることはある。


そこそこ長い期間にわたって私は和文雑誌を読み国内で活躍する医師の発表を学会やウェブ講演会などで聞き続けてきた。今の私は雑誌を読むとその著者の声が脳内に響く。テレビドラマなどで主人公が手紙を読むと途中から本人の声にオーバーレイされる演出があるがああいう感じがマジで達成されている。後天的に獲得した便利な脳アプリ。

この年になると新しいことを読んでもぜんぜん覚えられないが、知っている医師の口調で(脳内で)語りかけられると、一語一句は覚えずとも「講師の口調とか表情(いずれも脳内)」によってなんとなく雰囲気を覚えることができる。若手に質問されたとき、「あーその件については2か月くらい前に……〇〇病院の◯◯先生が……なんか眉をひそめながら早口で言ってたよ、どの雑誌だっけ、これこれ!」みたいに雑誌のアーカイブを取り出すと、若手は露骨に気持ち悪そうな表情をわたしに向けながら「……本の中で、◯◯先生が眉をひそめたんですか? 本なのに?」と懐疑的に問うてくる。「そうです」。クソリプに対する返事といっしょでさらっと答えてまたも私は本の向こうにおじさんの声を再生させる異能を持った気持ち悪いおじさんとして名を馳せる。

有能ならばトントンしてくれる

Zoom会議の接続直後に、事務局などから音声・カメラ確認目的で「よろしくおねがいしまーす」などと声がけされることはよくあるわけだが、Zoomに接続しはじめたタイミングでたいてい仕事の電話などがかかってきてその対応をしたりすることがなぜかよくあるわけで、となると、Zoom画面に私のデフォルトの表示名であるShin Ichiharaだけが表示されたままカメラもつかずマイクもミュート解除されず事務局担当者が何度も「市原先生よろしくおねがいしまーす よろしくおねがいしまーす」と点呼を取り続けるという地獄の阿鼻叫喚シーンが展開される。

目配せで(ゴメンネ今ちょっと電話だからちょっとちょろっと待ってて)とやれたらPCのほうが勝手にAI的なもので反応して先方にかわりに返事してくれるくらいのことをやれずに何がAIかと思う。人間がさまざまな努力によって克服してきた問題を代わりに上手にできますなんてことは別にそこまで大事ではないのだ。昔も今も人間が基本的にやりたくないと思っている仕事から順番にAI化したほうがいいに決まっているだろう。

たとえばメールで連絡すれば済むのにわざわざ日中に職場に電話をかけてくる人にはAIがそうと察して返事をすればいい。電話をかける直前の行動をスマホで勝手に収集しておいて要件がクソだったり文章で十分やりとりができそうな場合には電話をつなげない、もしくはAIが変わって「この要件についてはメールでのやりとりが推奨されています」みたいに返事してくれればいいのだ。それができないくせに何がAIか。

生成AI? 生成するのは楽しいだろうが! 楽しい仕事を奪うな! 楽しくないことをやれ! ブルシットジョブAIとか尻拭いAIとか理不尽な怒鳴られに替わって謝罪AIとかを開発しないで何がAIか。


Zoom講演にあまり慣れていない人が発表やらレクチャーやらをするとき、自分のマイクミュートを外したあとに「聞こえてますかー。聞こえてますかー」と連呼する。パワポを共有したらしたでまた「共有できてますかー。できてますかー」と連呼する。「聞こえてますか―。映ってますかー」。うるさい。AIが代わりに返事をするといい。そういうAIをぜんぜん開発してくれないくせに何がAIか。


ゴミの分別を自動でやってゴミの日の朝に代わりに捨ててくれるAI、生ゴミ回収の日がまだだいぶ先なのに生ゴミがたくさん出るような料理をしようと思ったときにトントンと肩を叩いて代わりのメニューを提案してくれるAI。

掃除機をかけていて気持ちよく汚れがとれた実感ができる場所だけを人が掃除しておけばその他の見落としがちな隅っことか裏っ側とかをあと適当に掃除しておいてくれるAI。

目上の人との会話がなかなか終わらないときにその人の肩をトントンと叩いて「そろそろやめにしたら?」と止めてくれるAI。


これからのAIの基本は肩トントンだ。それくらいやってから偉そうに言え。何が病理AIだよ。雑務もできねぇくせによ。

パフォーマンスコスト

朝から1例しか診断していない、しかもそれも他の医師が診断したものをチェックしただけだ。あとはずっとメールしている。臨床のために尽くすことが医師の本懐とするならば、今日の私の仕事量は研修医よりも圧倒的に少ないので本懐を遂げられておらず本懐を虐げているかんじだ。たとえば私が今朝の仕事をした先でより多くの医師たちが患者に真摯に向き合えるというならば、この下働きにも大きな価値があるといえるだろうが、朝からやりとりしている内容はそういうものでもない。すなわち本日の私は徹頭徹尾他人の役に立っていない。おまけにこの時間には給料が発生しているのだから役に立っていないどころか足を引っ張っていると言っても過言ではない。そこまでわかっていてなぜメールをするのか。理由は私が人びとの間で宙吊り気味に暮らしているごくふつうのサラリーマンだからであり、あらゆる行動に大義名分や高邁理想や福祉正義が込められているかというとそうではないからだ。卓球選手は決してパカポコラリーを上手に続けるために卓球選手になったわけではないと思うけれど試合前の肩慣らしの際にとりあえずパカポコラリーをする。そして私は肩慣らしでも脳慣らしでもないのにパカポコメールを打っている。


患者をひとりずつ病理診断しつづけることで、患者や主治医にとってはいろいろないいことがあり、もちろんそれは多くの場合つらい申告になってしまうのだけれど、社会の多くの場面で白黒が決まらなくなってきたこのグレーな世の中で、誰かのその一瞬の病態がこうであると「確定」することには、おそらくいくつかの良いことがある。

ただ、この、「ひとりにひとつずつ診断を下していく仕事」は、年齢を重ねるごとにそこそこなめられがちだな、ということを近頃はたまに考える。

たとえば「教育」をすることで、自分と同じくらい診断できる教え子を100人増やせば、自分ひとりで診断し続けるよりも100倍いいのではないかとか、「研究」をすることで、何万人もの人の命を救うといった話。とてもよく聞く。診断一本で部長職にいるとほぼ毎週耳にする。

言いたいことはまあわかる。しかし教育や研究が大事だよというときの語り口はうっかりするとコスパ論のようにも聞こえる。目の前のひとり、目の前のひとり、あと20年間診断し続けて、定年退職したらそれで終わりだけど教育とか研究をしておけばその先にもあなたの診断の結果が広がっていくんですよ、と言われるたび、「教育とか研究をしたほうがコスパいいんですよ」と言われているように感じてしまう私がいる。

日頃から、「コスパやタイパの話をするのは若い人のほうをちらちら見たがる中年だけ」という持論をふりかざしているので本日は少々はずかしいのだが、一例の診断よりも教育とか研究のほうがコスパいいよと言いたい人たちと「そうだね、そのとおりだ」とか言って話を合わせつつ、それでもなお、一例の診断に心を砕いていくというのが市井の病理医のありかただよなあと思う。そこまでわかっている。そこまでわかっているのに今日も私はチャカポコメールをしている。何周矛盾したら気が済むのだ。

選ばれたのは伊右衛門でした

毎日ペットボトルのお茶をコンビニで買うなんてのはほんとうにお金をドブに捨てる行為で、しかもそれが極上のウーロン茶みたいな家ではまず出せない味だってならともかく「やかんの麦茶」ってお前それ家で作れよ10分の1くらいの値段でできるんだからよ! みたいなツッコミを受けても受けても結局わたしはコンビニでお茶を買ってしまう。年を取れば取るだけカフェインにも弱くなり、もはや緑茶も紅茶もペットボトルであっても若干心臓に負担がかかるようになってきたので近頃はジャスミン茶かさんぴん茶か麦茶しか選択肢がない。ジャスミン茶はもう一生分飲んだからいらない。さんぴん茶は沖縄で飲まないとおいしくない。オリオンのノンアルがさんぴん茶だろう。そして家で入れた麦茶をいくら冷やしてもコンビニの麦茶を138円で買ったやつにはかなわない。こうしてわたしは今日もコンビニで冷えた麦茶を買うのだ。原価厨はけいれんしロハスなマダムが息を吸いきってひっくり返る。知ったことか。わたしはコンビニで冷えた麦茶を買う。

手元に飲み物がほしい瞬間は突然おとずれる。朝は別にいらないから持って出るつもりはない。ほしいときに飲む。飲みたいときに飲む。飲み終わったら入れ物ごと捨てる。欲望と物性との共時性こそが圧倒的正義であり圧倒的合理性である。快感。かばんの中に水筒という重くて邪魔なものが入っていない状態が達成できる快感。「わたしはコンビニのお茶くらいならあまり気にせずに買えるようになった」というのはつまり割礼である。子供のころはおろか大学生時代にも絶対にやれなかった雑な金銭感覚を常時持ち続けていることへの背徳的な優越感。

そしてわたしはコンビニでお茶以外のものを買わない。コンビニのスイーツを喜んで食べるやつらは全員南極の氷が割れて漂流するペンギンのかわりに地球温暖化の影響を一身に背負って南氷洋に消えていけばいいのだ。油によって味を高めているおにぎりのくどさ。2品目くらいしか存在しない野菜。ちょっと自炊するだけで何十倍も安くてうまくて健康的な飯にありつけるのにコンビニなんぞで小腹を満たすのはおかしい。選挙公約のように「コンビニの飯を食うな! とゴチックで額に書く。キンコンビニの飯を食うなマン。そんなわたしがなぜか麦茶を毎日コンビニの定価で買っている。矛盾。矛が折れて盾が砕け散るタイプの矛盾。最弱の矛と最弱の盾とが戦ったら勝負は両成敗である。



こういう感じのキャラクタを磨き抜いていきたいなと思っていた。しかしわたしは年を取った。コンビニでお茶を買ったり買わなかったりする。今日はなんか高く感じるからやめようとかいう。コンビニの菓子パンをときどき食べる。「食べないことにしています」みたいな決め事を人前でいいふらす人間の思考回路が単純すぎるのでAIなのではないかと気にしている。もっと複雑なもんだろう。もっとあいまいなもんだろう。たまに節約するしたまに体に悪いものを食べる。総体としてなんとなく平均的な暮らしをしつつときどきちょっとだけ散歩道をはずれて路傍の花にしゃがみこんで花びらをつまんでみたりする。コンビニのお茶ひとつで人間がわかるわけない。とはいえ哲学書100冊ならべたところで人間がわかるはずもないのだ。身体によって制限されるのと同じようにわたしはコンビニや人の目によって制限された枠の中でそれでも自由に遊んだり厳しく働いたりする。ああ、転職の誘いのメールが来た、どうしよう、どうやってあやふやに断ろうかなあ……。

不在の在

PCのモニタが沈黙し小さなランプの明かりもすべて消えたらちょっとだけ間をおいてからHDMIやUSBのジャックからいろいろコードをとりはずす。外付けモニタ、外付けハードディスク。バッテリーもはずして机の後ろ側にまわしたコードを回収してたたむ。PCを保護ケースの中にしまって旅行カバンの中に押し込む。どうせあとで空港で、また取り出して保安検査を通さなければいけない。羽田空港だけはPCを出さずとも保安検査が通過できるようにシステムが変わったのだがそれ以外の空港ではまだ融通が利かない。だからPCはカバンの上のほうに入れる。デスクを離れる前にふとふりかえると、外付けモニタやハードディスクから伸びたケーブルや有線LANケーブルがPCのあった場所のまわりに粘膜集中像のように模様を作っておりPCと私の不在を強調する。

今回の出張は縁故をつなぐための作業だ。感染症禍からこっち、しばらく出ていなかった学会の話をしていたら、「君はなぜあの委員会に出席しないのか」とわりと強めに怒られた。そんなことおっしゃいましても私は別に委員じゃないんですよ。するとあきれた顔をして彼は言った。「委員じゃなくても出るんだよ。そうやって顔を売るんだよ。そしたらそのうち委員になるんだよ。黙って待っていても委員にはなれないよ」。別に私は委員になりたいわけじゃないんですがというセリフは空虚かもしれなかった。委員になってもいいことはないが専門領域で発言権を持ち続けようと思ったら委員の仕事を手伝っておくのも必要なことなのだという。そんなこと教わってないですよと言ったら彼はむしろ優しい顔をして言った。「そりゃあ君はボスがいないからだ。この領域の教授についてる下っ端は委員会に強制で連れてこられる。何度もボスの後ろについて歩いていればそのうち後を継げる。しかし君にはこの領域ですでに活躍しているボスがいないだろう。一代年寄になろうと思ったらもっと積極的に顔を売りにこないとだめなんだぞ」。

くだらないなあと思いながら出張を決めた。日頃、教科書で参照している執筆者たちが委員としてあれこれ口喧嘩している場所に潜り込む。名簿に名前を書いて議事を黙って見る。これを何度か繰り返していれば委員に推薦できるから、という。「でも論文は書くんだぞ。実績がないと推薦できないからな」。彼はそう言って笑った。



私がこの学会に出ていない間、まれに私の名前が出たのだそうだ。そしてあいつは今日も来ていないといって笑われていたらしい。周りを取り囲む人びとの目線が集まった先の不在が強調され、私は知らないうちに点数を減らしていたのだということを教わる。救いがあるとすればそれはたくさんの人びとが私を見る目線がニヤニヤではなくニコニコに近かったことだ。それは私にとっては委員がどうとか学会がどうとかいうことよりもよっぽど大事なことに思われた。まあニコニコっつってもセキュリティに気をつけないと大変なことになるんだけれども。

かわいそうな事故

病理診断はついた。手術で取ってきた検体に、必要十分な検索を行って、病気の分類や進行度について定められた書式でのレポートを書き終えた。

その内容を読んだ臨床医と相談して、私は追加の検討をはじめることにした。主たる診断は確定。しかしこの手術検体にはほかにもたぶん見どころがある。

だからもっと見るのだ。一度保存しかけた臓器を取り出してふたたび目で見てプレパラートを作成する。

本来、そこまでしなくていい話ではある。

診断がすでについた以上、病理学的な追加検討というのは患者の将来にはあまり関係しない。だから患者から追加でお金を取ることはしない。そういう検討を病院で仕事としてやる必要があるかどうか。人によって意見がわかれるだろう。「病理診断でいちいちそこまでする義理はない」とか、「医療資源の無駄遣いだ」と考えるタイプの病理医もたくさんいる。ただ、そんなに肩ひじ張って考えなくても、「この場所で見られるものはせっかくだから全部見ておく」くらいの軽い気分でよいのではないかというのが私の考えだ。

臨床というグラウンドでヒットを量産することを考える。大事なことはなにか? バットでボールをとらえるための視力・眼力、バットコントロールを上手に行う調整力、ボールを遠くに飛ばすための腕力・体幹の力が必要なことは言うまでもない。ただしそういった、バットでボールをどんぴしゃで捉えればそれで全部かというと違うだろう。バットをきれいに振り抜くフォロースルーも大事だ。ベースランニングもおろそかにはできない。塁に出てからピッチャーのクセを盗んでチームメイトに伝えるのだって野球だろう。打って終わりじゃないということだ。そういう感じである。どういう感じ?




とある癌にむしばまれている臓器の、癌から外れた部分をたくさんプレパラートにして観察する。いわゆる「背景」を見ている。背景にはたくさんの情報が含まれている。癌が癌として発生するきっかけとなった出来事が隠れていることもあるし、癌とはぜんぜん関係がなく、ある意味、偶然べつの病態がひそんでいることも稀にある。

職場で窃盗事件が発生したときに内部の犯行がうたがわれ、職員全員の身体検査と持ち物検査をしたら、窃盗とはぜんぜん関係なく、ひとりの職員のカバンからエロ同人誌が見つかった。泣き崩れる職員。かわいそうに。とばっちりで。窃盗の捜査に関係ないんだからそっとしておいてやれよ。そこでそっとしておかないのが、今回、私がやろうとしていることだ。窃盗の捜査は粛々と進行して調書をとり書類送検まで終わっていて、すでにプロから別のプロに手渡しをしている。それはそれとして、周辺をあらいざらい調べる中で見つかった別の「ひっかかり」を放置しないということ。エロ同人の画力がすばらしいが職場に持ってくる倫理はぶっ壊れている、ではなぜ職場に持ってきたのか。職場のコピー機を勝手に使おうという邪心のなせるわざか。単に創作活動で徹夜してカバンの中身にまで思いが至らなくなったバグのようなものか。かわいそうな事故が生じた原因をわかる限りでつきとめていく。泣き崩れる職員。でもそこから誇り高く復活してくる職員。私たちは涙を拭き固く握手を交わす。そういうことを細胞を見ながらやっている。そういうこと?

折り鶴をほどく

目の奥が重く右手の薬指の腱に鈍痛がある。頸椎症は回復し内痔核は落ち着いた。五体にすこしずつせめぎあいが発生しており総体としての私が今日も昨日とほぼ同じ私でいられることを言祝いでいる。昨日から引き継いだ仕事を少しふくらませ、まだ軌道に乗っていない仕事にむりやり推進力を与えるために共同研究者にフライング気味のメールを送る。昨日を見越して明日をふりかえる。前、後ろ、右、左ときょろきょろ視線を動かしているうちにグラウンドに私の靴の後がたくさんついている、その模様を、私たちは現在と呼んでいる。トンボでならして消えていく。

過去と未来の交錯点が現在なのではない。過去と未来がごっちゃにかかれたコピー用紙を任意のヤマオリ線で折りたたんだときに折り目の角にあたる部分が現在だ。鶴を折ってからほどいて元の紙に戻したものを眺めれば錯綜した折り目が見えるだろう。現在だ。現在とは過去と未来をぐちゃぐちゃに分割する格子模様であり、単純な物理法則によって規定されているにもかかわらず任意回数の繰り返しによって予測が困難になる複雑系である。

滝壺から少し離れたところに立って体に和紙を巻き付けてしばらく待ったときに水しぶきがかかって和紙がふやけて体が見えてくるとしたらその見えてくるセクシーな体表が過去、残った和紙のなす模様が現在、滝壺から飛んでくる水の飛沫ひとつひとつが未来。未来は過去をあばき間接的に現在に希望という名の残務をつなぐ。

培養細胞の未来はFBSの中に溶けている。培養細胞の過去は大学院生のPCの中で未整理なファイル名を与えられて論文にまとまることなく忘却されている。共焦点顕微鏡を買うための大型科研費の申請書類にコーヒーをこぼした講師の涙が現在だ。過去はあり得た未来を希求してどこにも届かない声で泣き、そのとき震えた声帯をフーリエ変換すると現在がプロットされて、未来は研究者の思惑と関連せずに培養細胞をただ活かし続ける。


これを読まないという微調整があり得たしこれを書かないという偶然もあり得た。時間の流れを語るにあたって鋭角に尖った図を用いて収斂という言葉を使うことに違和感がある。状態とは一点に集約することなく模様として存在する万華鏡のようなものだろう。不確定の確率を観測すれば一つに定まるというのもまた方程式が好きな私たちのありふれたかんちがいだ。立体を作り上げるための展開図は無限のパターンから選び取られる必要なくただそこに「選ぶことも可能ではある状態」として無造作に置かれる。

人生が選択の連続だという冗句を疑わない人間たち。「選択するという見方を選んでしまう」というのは、魂に延々と課税されていることに等しい。私たちは、たぶん、おそらく税金を払いすぎるくらいでちょうどいい。損をしながら暮らしていると嘆くくらいでちょうどいい。選べと強制されるよりもずっと、選ばされていること気づかないほうが幸せに決まっている。ああ、うっかり、幸せというひとつの状態に固定してしまった。追ってしまった鶴をほどいて幾何学的な模様を意味もわからないままに眺めていると何度も折り目を付けた緑色の折り紙の色素がはがれて白い地が顔を出した。現在の輪郭がぼやけ、過去と未来それぞれとの境界がわからなくなってdemarcationできなくなってようやく時空に近い現象を見ている気持ちになってくる。

書いて満足

あっぶね今日から検食だ! 説明しよう! 検食とは病院の患者に出る食事を医師などが食べてチェックするシステムである! 毒見ではない、なぜなら患者と同じタイミングで昼ご飯などを食べるので、もし何か食中毒的なことがあったら普通に患者と同じように医師も苦しむだけである。まあそんな心配はしてないが。検食当番はだいたい数年に一度のペースで回ってくる。150名くらいいる医師で順番に回している。やることは、お昼になったら医局の共用スペースに移動し、院内厨房からとどいた病院食のうちおかゆじゃない普通の白米がつくタイプのやつを食べ、検食簿に味とか温度とか盛り付けとかについての感想を記載する。これが1週間続く。この間食費が浮く。検食簿の最後にはおいしかったですとかごちそうさまでしたと記載しておく。この役が回ってくるたび私の字は汚くなっている。丁寧に書きたいのだがとにかく親指の靱帯が痛くてあまりペンをきちんと持てない。こんなところでも歳を取るんだなあ。

検食、いつもと違う生活。食い物が違うことが問題なのではない。いつもほとんど寄り付かない医局で5分程度座って飯を食うことが非日常だ。ストレスである。まあストレスなんてどこで暮らしていても降り掛かってくるからあんまり変わんないけど。でもストレスよりももっと問題なのはこの検食の予定を、先月から聞いていて、先週もたしかに覚えていたのに、今朝になったらころっと忘れていたということだ。もし私がお弁当派だったら間違いなく今膝から崩れ落ちていた。うそ。膝からなんて崩れ落ちないよ人間は。映画とかアニメ見たことがない人だったら絶対そんな膝から崩れ落ちたりしないよ。そういうことする人は膝から崩れ落ちるところを誰かに見せてなにかのメッセージを伝えようとしているだけだと思う。話がずれた。もし私がお弁当派だったら、今日から検診だということに気づいた瞬間に膝から崩れ落ちていただろう(ポーズとして)。

ルーティンから少し外れる予定を最近ほんとうによく忘れるようになった。絶対カレンダーに書いとこ、と思ってちゃんと書いて、案の定そのカレンダーを見忘れていたので予防も意味をなさなかった。

デスクの向かいの壁にカレンダーを3枚かけていて向こう3か月の予定が一望できるようにしてある。手持ちの手帳にも予定は書き込んであるしスマホのアプリでも管理をしている。三重にも四重にも予定を記載するのはひとえに「手をくだして書いたということもまた思い出すきっかけになるから」だ。スマホアプリ1個にちょっと書いたくらいでは私はあらゆる予定を忘れる。通知もうざいから切る、それがよくないと言えばよくないのだが、予定のたびにビロビロ鳴られてはたまったものではない。というわけで近頃の私は、自分がものを忘れることを前提として、例えば月曜日の午前中にルーティンワークとして「カレンダーを見ながらぼうっとする時間」を設けることにしている。たくさん書いて残して満足するのではなくてそれを自動的に読み返す時間をシステムとして設定しておくということだ。これだけやっても昼になると忘れたりするから本当にままならない。

予定を書いて満足する、とか、計画を立てて満足する、というのは、小さい頃から私にそなわった気性のようなものだ。修学旅行のしおりを作るのが好きだったし大学の試験の前にはよく試験対策のプリントを作って満足していた。じっさいにそういうまとめとかアンチョコの類を作ったあとに見返すかというと私は絶対に見直さない。しかし作ったことがそのまま勉強や実践の役に立つのである。しかし、そういう「役に立つ」ことはまあいいとして、事務的な予定を書いて残しただけで満足してしまうのはあきらかに私の欠点であろう。カレンダーを3つ並べて貼っても今日の検食の予定すらあやうくすっぽかしそうだった。分子専門病理医の受験資格を集めて問題も解き、あとは受けるだけだったのだがどうでもいい気分になって結局受験していないというあの頃の私はじつに私であったなと思う。予定というのは書き記すだけで満足してしまうものだ。実際に無言で実践までたどり着けるものごとのなんと少ないことか。

ほめられたい

どうほめられたいか、みたいなことを真剣に考えておく。ほめてほめて。このようにほめて。前者はかまってちゃんだが後者は戦略でもあるし倫理観でもあるし目標というか宣言でもある。後者は大事だと思っている。たとえば私の場合はこのようにほめられたい。

「きみは顕微鏡をよく見ていてえらいなあ。細胞の所見をきちんととっていてえらいなあ。」

これ。病理医であることをほめられたいとはあまり思わないが、細胞を真摯に見ていることをほめられたい。そこをほめられたらすごくうれしい。細胞のようすを的確に書き表した病理診断報告書を、臨床医が読んですごくよくわかると言ってくれるのが何よりもうれしいのだ。そして、かくのごとくほめられるためには当然のことながらたくさんのハードルを意識する必要がある。ハードル走というのはハードルを飛び越えるための脚力も大事だがそれ以上に見通しを立てる力というかリズムを合わせる努力がカギになる。

細胞を虚心坦懐に見てそのようすを丁寧に書き記す。そのためには細胞を見るという部門で不断の努力が必要なのと同様に、見たものを書いて読んでもらって納得してもらう力を養うべく普段の努力が必要だ。前者は不断であったほうがよく後者は普段化していることが望ましい。そこにはニュアンスの差がありやるべきことがちょっと違う。

「病理医をやっていてえらいなあ」には、ほめられるために必要とされる日常的な努力が感じられないからつまらない。しかし「細胞をよく見ていてえらいなあ」のほうはほめられる直前の数分にも細胞をきちんと見ているくらいでないと、とうていほめられるレベルに達しない。私は細胞をよく見る病理医としてほめられたい。口が回るなあとか講演がおもしろいなあとかではなく、見た目が若いなあとか愛らしいなあとかはまあ別の意味でほめてもらいたいけどそういうことでもなく、とにかく、「細胞のようすをこんなにきちんと調べて書いているのはえらいね」の一点でほめられたいと思ってそれを目指してやっている。




最近は本を読んでいるとうたたねをしてしまう。ただそこで本当に問題なのは、眠たくなってからの10分くらい、がくがくとしながらもページだけをめくっていて、結局寝落ちしてしばらくして目覚めて、そこからまた読書を再開した時に「数ページ分ほとんど意識なく自動で読んでしまった部分をまあいいかと思って読み飛ばしてしまうこと」だ。あれーここまで読んだっけなあちょっと戻って読み直すかあ、というのを昔はもう少し丁寧にやっていた。しかし今は、なんか、そういう偶然で読み飛ばしてしまったところをそのまま放置しても別にいいか、くらいの気持ちで先に読み進めてしまう。雑である。「あなたはとても丁寧に本を読むんですねえ」とほめられたい気持ちが少しでもあれば絶対にしないタイプの読書である。でも私はべつにそういうほめられかたをしたいとは思わないのであった。人間は、具体的にこのようにほめられたいという欲望で自分をうまく駆動しておかないと、少しずつ雑になっていく。私は読書に対して雑になっていくばかりだ。いっぽう病理診断はほめられたい分すこしずつ丁寧になっていく。ほめられることはとてもいいことだ。一番いいのはまだほめられていなくて、これからほめられるかもしれないと思って自分が奮い立つその瞬間だ。

実況パワフルプロ医療

昨日の夕方にふと思い立って知人の内視鏡医に「症例集」作成の企画を送りつけた。おおむね好意的なお返事をいただけたので、これから症例集積と執筆がスタートする。本にするかどうかはわからない。ウェブにまとめるか、パワポ用の資料として関係各位で共有するか。どちらでもいい。役に立つものができればいいのである。

ただ、朝になって、なぜこんな忙しいことを新たにはじめてしまったのかと若干後悔している。若干。やらない後悔よりやった後悔のほうがまし、理屈はそうだが、結局はなぜはじめてしまったのかと若干後悔している。若干。ずっと書き途中の原稿がじっとこちらを見ている。フラジャイルの非公式解説本もぜんぜん進んでいない。じっとこちらを見ている。

いそがしい。どうにかして秘書を雇えないだろうか。先立つものが必要だ。研究者番号を取得して、大型の研究費を通してそれで雇うというのが基本的なスタイルであろう。私にはとうてい無理である。大学にいないでそれができたらかっこいい。そして私はかっこわるい。それ以外の方法がなにかないだろうか。ロト6。堅実な方法がないだろうか。宝塚記念。「ベンチャーの下品な社長くらい稼いでいれば解決できた」という非情な現実を直視せざるを得ない。これまで私は金に興味がないままストイックに仕事をし続けて、仕事がぱんぱんに増えて秘書が欲しくなってようやく金の大事さに気づいた。ドラクエIIIにたとえるとルイーダの酒場でまほうつかいやそうりょを雇わずにせんし・ぶとうか・しょうにんでパーティーを組んでイキってぼうけんを始めたがアッサラームあたりで普通にしんどくなって「なんでこんなしょうもないメンバーではじめてしまったのか」と最初の選択を嘆くようなものだ。手遅れという便利な言葉がある。

英語と中国語がしゃべれて事務作業が早く、学会業務に精通していてパワポのデザインセンスがあり、博士・医学(PhD)と公衆衛生修士(MPH)を持っていて査読はお手の物、刑事訴訟法と経理の知識を持ちSNSに聡くメールの返信が早い、趣味がゲームと文芸の酒飲みを年収5000万くらいで10年雇いたい。そのために私がやるべきは医学をないがしろにして投資に身を捧げて10年かけて20億くらい稼いでおくことだったのだ。医療も研究もそこそこに寝当直のバイトで糊口をしのぎながら朝から晩まで投資の勉強をしておけば、低確率で今ごろはいわゆる「億りびと」になれていたはずだ。有り余る金を使って秘書を雇、それで思う存分医療や研究に邁進できたはずだ。もしそうなれていたら私は今ごろ医学のことだけを四六時中考えていればいい状態を達成できていたはずだ。ただし医療や研究をないがしろにして投資にかまけた私が果たして四六時中医療のことを考えられるのかどうかは定かではない。




エスコンフィールドで何度か野球をみているうちに、広告が目に入ってパワプロが気になり、アプリをダウンロードして25年ぶりにパワプロのサクセスモードをはじめた。やることが多い。トレーニングは素振りに筋トレ、走力、肩、守備、精神とたくさんあって、チームメイトやコーチ、特別ゲストの五条悟や甘露寺蜜璃などといっしょに練習すればその分育成ボーナスがもらえる。シナリオによっては練習とはべつに特殊なタスクをこなすことで結果的にあとでさらに育成ボーナスがもらえる。さらにパートナー候補とも仲良くすればパートナーボーナスももらえて選手がより強力に育つ。しかし休息もしないと故障の確率が跳ね上がる。練習ばかりしていないでたまに遊んだほうがかえっていいイベントを引けたりもする。パワプロのサクセスというのは私が高校生だったころからずっとこうだ。こちらを立てればあちらが立たずのバランスをすり抜ける技術が求められる。八方美人の全方位気配り、シン・ゴジラの背鱗迎撃レーザー、足が8000本くらいあるヤジロベーをうまく立たせるようなプレイをすることでまれに奇跡のような名選手が誕生する。ノウハウは忘れたかと思っていたが感覚がそれなりに残っていたようで、久々のパワプロサクセスはまあそこそこ楽しかった。ところが、最初にできた選手がありとあらゆる能力完スト、特性てんこもりのいきなり最強選手になってしまった。どうも一気に興ざめして、なんだかやる気がなくなってしまった。ダイジョーブ博士に合わなかったのに全ステータスが100になってしまうというのはゲームバランスが崩壊していると私は思う。最近のスマホゲームというのはこれくらいじゃないとユーザーのアドレナリンを出せないのだろうか。野球の能力が最強で友人も多くて彼女もいて……。生き様として邪道。秘書を雇えるくらい金銭感覚に長けていながら医療人としての高みを目指して成功してしまったような居心地の悪さを覚えた。たまったもんじゃない。パワプロはぬるい。私の人生のほうがよっぽどゲームバランスがちょうどいい。何もかもうまくいかず全ステータスがGデフォルトだからこそ、たまにたったひとつのステータスがDくらいまで上がったときに喜びがひとしおになるのだ。矢部くんがあいかわらず元気なのが唯一の救いである。

納得感爆盛りメイク

「透明感爆盛りメイク」というのを動画で見た。この場合の透明感というのは何を意味するのだろうか。

皮膚が透けてみえると言いたいわけではあるまい。皮膚が透けたら皮下脂肪が見えるし、さらに透けたら顔面の筋肉が見える。皮下脂肪なら黄ばみ。筋肉なら赤茶色。つまり本当に透明感が増したら顔面は黄ばんだり赤鬼になったり進撃の巨人になったりする。でもそういうことではない。

当然のことだが透明と透明感とはまったく異なる概念だ。印象を言葉にし、それを読み取るというのは難しい。字義は奥深い。

透明感爆盛りされたモデルの顔をいろいろ見比べてみると、さまざまなパターンがありうることに気づく。ときに陶器のような白、ときに健康的な青み、清涼感のあるピンクみという初めて表現するタイプの印象を抱かせる人もいるし、単に顔面が奥行方向に立体的で正面から見た時にいわゆる小顔に見えるだけの人が光のバランスや服飾雑貨との相性によって透明感あると表現されていることもあるし、丁寧でロハスな暮らしをしているキャラクタが先入観となって透明感あるとインタビュアーが言いたくなってしまうだけのパターンもある。本人は別に普通なんだけどカメラマンが透明感のある現像を達成したケースもある。

一様ではない。

我々が口々に「透明感ある~」と呼ぶタイプの人は多彩だ。しかしその一方で、透明感という言葉ひとつがそこそこ普遍性のある印象を喚起してくるのもまた事実である。ぜんぜん違う顔なのだけれどなぜか、どこか、たしかに、透明感あると表現したくなる一群がある。これまでダーッと書いてきたように私が全力で茶化しても乗り越えるだけの説得力があるワード、それが「透明感」である。

ふと思ったのは、「くすみ」に対するアンチテーゼとしての透明感なのではということ。くすみは血流の悪いかんじで、灰色や青、メラニン色素の濃い茶色などが混じってテクスチャがばらついた、マットかつ粒度が粗い雰囲気を指す表現であろう。「透明感」に比べると「くすみ」のほうが定義が容易だと感じる。そして、そういったくすみが感じられない顔面に、反対語として「透明感ある」という言葉を提示するのではないだろうか。透明感という概念が単独で屹立しているのではなく、まず「くすみ」というヴィランが存在し、それに引き立てられる形で透明感というヒーローが出現するのではないか。

となるとメイクで透明感を出すにあたっては、くすみを積極的に干渉させて消去していくような、色相環と色温度を考慮した積極的な塗りつぶしの技術が大事であって、それはつまり「肌の奥まで貫通させるようなメイク」をするという意味ではないだろう。



このような考察を一切の実践(じぶんできちんとメイクをするということ)をなさぬままに脳内でこねくりまわすことの罪がある。メイクの達人は先の私の表現を「そういうことではないよ」と一刀両断にするだろう。一見、理屈が通る分析であっても、毎日肌に筆を乗せている人間からすると感触の部分で「それはまた別」と言いたくなることだろう。だからここからは、私が毎日きちんと化粧筆ならぬキーボードでニュアンスを乗っけている仕事の話に変換する。つまりは病理診断の話になる。



「この腫瘍はかたまりを作っているけれど、この領域はわりと整った形をしていて、ここの部分だけはぐちゃっとしていて不整である」みたいな表現をどこまで突き詰めていくか。病変を見て語るにあたり、さまざまな言葉を代入して、おのおのの医師が好き勝手に目で見たものを共通認識として育てていく。このとき、肌を見るのと同じように、「ここは透明感がある」とか、「こっちはマットな印象がある」とか、「ここは黄ばんでいる」とか、「ここだけくすんでいる」といった表現を用いることができる。そしてこのように語ることで形態診断学に主観が入り込み、再現性が落ちる。ひとりの医師が自分の思ったとおりの言葉をただ述べることで、ほかの病院で働く別の医師にその意図が伝わりづらくなる。

伝わりづらくなるのだが、しかし。

「ここはなんとなく透明感があるじゃないですか」と医師が言ったとき、たとえば海外の内視鏡医が、「ホワッツぜんぜんわからないよ日本人はオタクな読み方をするね」みたいに嘲笑することがある。しかしその「透明感がある」と感じた理由を、病理組織を見ながら丁寧に因数分解して、「表層の上皮はよく分化していて細胞どうしの丈が揃っていて粘液の産生が一律なのであまり乱反射が起こらず光が透過しやすく、深部においては拡張腺管があって中に粘液が溜まっているから腺管内腔の輪郭がスムースでやはり屈折や乱反射をおこしづらいので、総体として透見性が高まっているように見えるのではないか」と解釈することで、あっ、なんか、それ、わかった! と、共通認識にしてくれる人たちは確かにいる。それは洋の東西を問わずいる。


しのごの理屈を言うんじゃなくて実際にメイクしてみればいいと、センスと経験で言語化を超える仕事のほうが、私はだいぶ崇高だと感じていて、病理診断のように言語化以外で戦うすべを持たない仕事を少し残念に思うことがないわけではない。しかし、私たちにとって、病理診断報告書にとどまらず、臨床医が疑問を持った病変の形態を、研究会や学会、さらには飲み会の帰り道などに、さまざまな理屈と表現を用いて言い表していく営為は、透明感爆盛りメイクほどではないにしろ何かをもりもりと積み上げてその病変の存在を世界に向かって「見ろ! ここにこうしているぞ!」と発信していく作業にほかならず、まあ、悪い仕事ではないんじゃないかなとも思うわけである。

二股

しばし呆然としたのち、右側にチェック待ち生検のマッペ、左側に臨床医から写真撮影を依頼された希少例のマッペ、前方の棚に大学の「今週の一例」に提示する教育症例のマッペを置いて、それらから等しく距離をとりどれにも手を付けず、今こうしてブログを書き始めた。15分後にはすべてにとりかかる必要があるがここで15分呆然とすることを選べるようになったのが成長というものだ。マッペとは何か? そんなことはググって冒頭に出てくるAIが生成した答えを見ればわかることだからいちいち説明しない。先日も若者から「大菱形筋の付着部が教科書と解剖学アプリとで微妙に違うんですが、これはどちらかが間違っているんでしょうか?」と質問を受けたので「ググればわかることだ」と答えた。ところが今それを思い出してググってみると、どうも答えがうまく出てこないのである。大菱形筋 付着部 個体差。大菱形筋 頚椎 付着 バリエーション。生成AIはWikipediaの文章を丸パクリした内容をGoogleのトップに表示するが果たしてこれがどれだけのバリエーションを許容するものなのかという結果にはなかなかたどりつかない。ググっても何もわからなくなった。いや、違うか、ググるとすぐに答えは出てくるがその細部がどれだけ信用できるのかがわからない。新宿の雑踏で行き交う人の中から自信満々の紳士を選んで道を訪ねたら胸を張って「新宿ロフトはあっちです」と答えてもらえたが実際に歩いてみてもいっこうにロフトにたどり着かなくて、おかしいなと思ってスマホで地図を開いたら30度くらいずれたところを歩いていたあの日のことを思い出す。自信満々でちょっとずれることを言われるのが一番迷惑である。AIは今、一番迷惑である。


















AIは迷惑だし小賢しい。その場しのぎで質問者が内心考えている内容に絶妙に寄り添いつつ決して本質的ではない回答を秒速で返してくる。AIは結婚詐欺師のようだ。私はやるせない気持ちでいっぱいになった。これだけしゃべれても感情がないとなると人間はどれだけしゃべっても感情を証明できないことになりはしないか。15分経ったので仕事に戻る。マッペが私の即答を待っている。

生涯教育のはなし

以下、一般的・普遍的なことを書きたいわけではなく、私の立場と経験とキャラクタにもとづいて私による私のための文章を書く。何についてかというと、教育について。


私が高校生くらいのころ、教育のトレンドはすでに「背中を見て学べ」ではなかった。
「職人の世界では、師匠が弟子に具体的な手順や方法を語ることはなく、弟子は師匠を見て盗むしかない」
みたいな話は当時すでに伝説化していた。ほっぽらかしの教育には厳しい目線が向けられるようになっていた。教育とは手取り足取りがあたりまえで、教師に求められるスキルはホスピタリティであり生徒の個性にあわせたオーダーメイド性であって、もし生徒が勉強につまずいた場合、教わる側だけでなく教える側にも責任がある。「先生ガチャ」という言葉は存在しなかったが、概念はすでにあった。数学の先生がぜんぜんだめだから私は今でも確率が苦手だとか、日本史の先生のおかげで私は歴史に興味を持つことができたといった、「先生の教え方のせいで私はうまく学べなかった/学べた」という言説を日常でよく耳にした。というか今もXでたまに見かける。あのころの高校生たちは当時の気分を引きずっている。

私たちが生徒だったころ、「自分がこの学問に興味を持てないのは先生のせい」という他責思考は十分に正当化されていた。それはある種の共通認識だったし暴力装置でもあった。


逆に、あのころは「人気講師」がいた時代でもあった。参考書や問題集を探しに大きめの本屋に行くと、予備校の人気講師が講義形式で語るタイプの本がいっぱい出ていた。「代ゼミ 〇〇 白熱講義」(〇〇には人の名前が入る)とか、「駿台〇〇式集中講」とか、「河合塾 〇〇の解法」みたいなものが花盛りだった。受験生であった私は、予備校講師の講義形式の本を読んで無機化学や微分積分などを勉強した。

「教え上手」とは体系を構造立てて語れること。思考の道筋を的確にナビゲーションできること。キーワードを粒立たせピットフォールのまわりにキープアウトのテープを貼れること。教わる側に飽きや眠さを感じさせない語り口。究極的には声色とか文体とか、なんなら教師自身の顔が魅力的であることまで含まれていた。


幾星霜を経て、これらの風景はいずれも少し古びたように思う。名物教師、カリスマ講師の時代は去った。令和のいま、教育はふたたび、師匠の背中を見て学ぶ様式に戻りつつある。

もちろんすべての教育がそうとは言わない。冒頭に断り書きしたように、これはあくまで、「私から見た」教育についての話だ。

私がもっか仕事でかかわる「医学生に対する教育」に、「名物講師」という価値観はそぐわなくなっている。教え上手であることは必要条件でも十分条件でもない。なぜなら、昨今の医学生たちはそこまでひとりの講師に責任を負わせない……というか……教師ひとりにそこまで興味を持たないからだ。

今の医学生たちはかつてよりもはるかに容易に師匠の背中を追いかけることができる。オンラインに見て盗むためのツールが無限にあるからだ。検索、連続視聴、倍速再生、一時停止→スクショ、保存、シェア、拡散。背中を追いかけるどころか、師匠のお腹も頭頂部も足の裏も、腹の中までもAR的に見ることができる。豊富な動画と多量の口コミのキメラを仮想教師に生成して学ぶ医学生たちにしてみれば、飛沫がかかる距離で物理的に鼓膜を振動させてくるひとりの講師の言葉が占める影響力は相対的に低い。


ある医学生が病理学の試験に落ちたとする。かつてであれば、それは「わかりにくい講義をした講師のせい」であり、「いい過去問を残さなかった先輩のせい」であった(もちろん本人のせいなのだが落ちた本人はたいていこのような他責思考を抱えていた)。しかし今は、病理の講師の教え方が悪かったと考える人間は少ない。要は、その医学生がスマホやiPadを駆使できなかったから、たくさんの教材を効果的に使うことができなかったから試験に落ちたのである。大学の講師の教え方がへたなことなど織り込み済みだ。というか、大学の講師の印象などほぼないのだ。インターネットを駆使して無数の優れた教材を手に入れて上手に勉強するのが現代の医学生の必須スキルであり、必修試験を落とすというのは端的に「勉強がへただから」であって、講師に他責している場合ではない。


ここで私は、「現代、医学を教育する側にはもはや責任がない」と言いたいのかというとそうではない。

私たち指導者の側は、もはやカリスマ講師にはなり得ないしなる必要もないが、「教材の一つ」として博覧される覚悟をするべきなのだと思う。

実際、今の私は、医学生や研修医相手に「わかりやすく説明する」という態度をとっていない。わかりやすくしゃべれないという「不可能」の面もあるが、わかりやすくしゃべりたくないという「意図的」な面がむくむく大きくなってきた。

医学生たちに「わかりやすい指導」をするべきなのは、学年が近い研修医や専攻医たちだ。いわゆる屋根瓦方式というやつで、近接したナラティブを共有した人間が、少し先から学生を導くやり方は十分に有効だ。しかし私はもう46歳で医師22年目。屋根瓦のたとえでいうと、現在地上にいる医学生たちから見て五重塔の四階くらいに佇んでいる立場である。そんな私が医学生たちに「わかりやすく教える」ということ自体を薄ら寒く感じている。

今どきの学生たちは私のことを数ある動画のひとつとして見ている。すでに多くのしゃべりの達人たちがYouTubeや会員制医療サイトの動画で初心者向けの知識や医術を解説しており、それにプラスして私が医学生の前で何をできるか/すべきか。それはきっと「彼らにとって一番親身な講師になること」ではなく、「誰よりもわかりやすくしゃべること」でもなく、「切り抜き動画の素材になること」だ。切り抜かれる頻度はさほど高くないかもしれない。けれども、どこの世界にもマニアはいる。

私は、誰に替わられてもいっこうに悪影響の出ない代替可能な人生を生きつつ、私にしかできない独自の人生も微妙にミックスさせた、ごく平均的な暮らしをしている。その私が「なんかいろいろな物語を背負って今こうしてうごめいているよ」というものを提示し、それを切り抜き動画にしたいと思った一部の好事家が私の一部分をうまいこと切り取って資料にしてくれれば十分である。

それが教育における私の立ち位置であり責任なのではないかとわりと本気で考えている。

若い人向けの「講演」は卒業する。より年の近い人たちに講師役を渡して私はさっさと消える。「まだまだこれからですよ、先生の話を聞きたい人はたくさんいますよ」と声をかけてくれる人は全員私より年上であり、「手取り足取りの平成仕草」がしみついた人ばかりだ。今はそういうのはもう流行らないと思う。かわりに、若い人向けの勉強の「素材」になる。ならなければいけない。それが中年の責任だと考えている。若い人たちに直接対面する必要なんてない。私は若い人から遠く離れてベテラン相手に全力を出してしゃべり、それを若者がなにかの拍子に切り抜いて、ほかの講師とまぜこぜにして瞬間的にバズる動画になったとしたら、それが私ができる最高の教育ではないかという気がしてならない。

スピキンワーゾビウィズダム

ヤギとかヒツジがメェェと鳴くとき、冒頭のMの部分は「口を開ける前に声が出始めている」ことを示している。なんとなくぼうっとしていて口が開きっぱなしのヤギであればメェェではなくエエェェと鳴くはずだ。ここでふと思い立って検索をした。英語圏ではヤギやヒツジの鳴き声はバァァ(Baa)と記載するそうだ。声がではじめてやや遅れて口が開くときの音が、MではなくBとして聞こえているということになる。言いたいことはまあわかる。英語圏でなんとなくぼうっとしていて口が開きっぱなしのヤギはバァァではなくアアァァと鳴くだろう。エエェェもアアァァもやっちまったオタクっぽい雰囲気であり共通している。だらしないヤギはやっちまったオタクだ。だらしないウシはオオォォと横山三国志の馬超になり、だらしないネコはイヤァァとブルース・リーをはじめる。


「マシュマロ」というSNSをはじめてしばらく経つ。一瞬で飽きたからもうやっていない。というか開設したことすら忘れていた。このSNSは匿名で質問を送ることができ、それにXを経由するなどして返事を返すといういわゆる質問箱的な使い方をする。さっき通知が届いて、新しい質問が来た。こんな質問であった。

「今年はナスを植えたんですか?」

それを知ってどうしたいのだ。こんな質問ばっかりくるから私は飽きたのである。札幌中の家庭菜園を夜中にチェックして私の自宅を割り出すつもりなのかもしれない。それは気にし過ぎかもしれない。瞬間的に思いついた答えは「ナスを植えている私のほうが好きならそのように想像しておいてください」というものだったが返事はしなかった。こういう答え方をするからストーカーが図に乗るのである。ちなみに今年の畑は追肥もちゃんとしているし雑草もこまめに抜いているので見た目がきれいで妻もほめてくれる。私が札幌の病院を去ったらこの畑はどうなるんだろうということが少しだけ気にかかる。自然のままに任せたら即座に廃墟的になっていくのが畑というものだ。定期的に手を加えることでようやく静けさが手に入る。


世にあるものをそのまま見ようと思っても切り分け方や解釈にたくさんの主観がはいるので「そのまま見る」ことはできない。しかしそういうかたいことをいわず、厳密さを抜きにして、自分の中で納得できる程度での「なるべくそのまま見る」ということは、やってやれないことではない。近頃の私もあなたも世の中で起こっていることを「そのまま見よう」としているはずだ。できるだけ虚心坦懐に見たいものである。なぜならだまされるのはいやだし誘導されるのも気分が悪いからだ。ありのままの姿見せるのよ。ポリゴンのレンダリングぜんぶ剥がせってことですか? ゴジラマイナスワンが技術の賞をとったから監督はほくほくしながらゴジラのCGのフレームをつぎつぎとテレビバラエティショウで開陳。あの世界における物語がつぎつぎと解体されていくことを私はかわいそうに思った。役者がかわいそうというのではなくて物語がかわいそうだと思った。虚構を虚構のまま維持できないような物語を作るのはかわいそうだ。ライオスが絵画の中に自分を書き込んだときのことを思い浮かべてみてほしい。持続的に物語を維持できないタイプの人間が創作をした先には悲劇が待っている。神が人を作ったという。物語の中にいる人間たちの慟哭を思う。


このあと大学の研修説明会に出向く。私は「教える側」として学生や研修医に当院の特色を説明する。ありのままの姿見せるのよ。バーチャルスライドスキャナはおろか病理医ごとの個室もろくに与えられていないISO15189の監査担当者に「がんばってますね……」と同情されたわが検査室をそのまま見せるのよ。歩きながらスマホで5分程度の動画を撮ったので今日はこのあとこれに生実況を付ける。非常に評判のいい説明で毎年たくさんの笑いを誘うが当院で病理研修を選択するドクターはひとりたりとも現れない。自分がかわいそうに思った。うちの病院で病理の研修をすると医学がおもしろくなりすぎて病理が第一志望だったやつらも臨床医になっちまうんだよな。

ブッカツ帰りのハイスクールボーイ

「カステラがカステラをカスッテラ」というダジャレをつくるためにパワポに5分ほど向かっている間に、昨晩ウェブ研究会で症例を提示した医者からメールが届いた。高速で解説した私の話にきちんと呼応して細かな質問をしてくれている。ダジャレパワポを開いたまま、私が過去に経験して論文化した症例を探し出し、論文のPDFと詳細な病理解説のパワポをセットでGoogle driveに上げて、リンクを返信する(ほんとは論文はホイホイ送っちゃだめなんだろうけどまあopen accessだからよいだろう)。メール本文に解説を書き加えると8行くらい。改行せず8行。

みやすさを考えるときちんと改行したほうがいいし、

句読点も打ったほうがいいに決まっている。

しかし、近頃は、

たまにiPhoneですべてのメールを読んでいる医者などもちらほら出てきて、

そういう使い方をしている人からしてみれば、

こうして適度に改行するよりも

いっそ

改行なしで

ダーッと書いてやったほうが

読みやすいのではないか、

と思った




というような理由を用意したうえで、近頃の私はメールで改行をしない。そういう方針がおそらくこのブログにもにじみ出ていて、過去のアーカイブを眺めていると直近の記事はどれもあまり改行をしていない。ブログもスマホで読むだろうからメールと理屈は一緒といえば一緒なんだけど、スマホに比べるとブログ記事はやっぱりある程度改行したほうがいいのではないかと私自身も思うのだが、それでも結局改行を使っていない。つまりここまでの議論はわりと建前で、本当はもうちょっと別の理由で私は改行を使わなくなったのである。

昔はもう少し「侍魂」みたいな書き方もしていた。しかしやめた。単純にホームページ的ギミックに飽きたということもある。ガワで読んでもらうのではなく文章の意味やリズムで読んでもらいたいという欲も作用しているだろう。しかしもうちょっと理由の本丸を説明すると、私の脳からのオリジナルの出力に改行という概念がなく、文章として整形するときに効果を付け加えるのが面倒だからという理由で私は改行をあまり使わなくなっているだけな気がする。夜中にすっぴんスラックスでドラッグストアに洗顔フォームを買いに行くのとブログで改行なし推敲なしの文章を書きつけるのとメンタルステータスは似ているかもしれない。



話は変わるが今私の家にはあまり物がない。掃除や整頓をするのが楽だ。ただし私はそもそもずぼらではなくよく言えば几帳面、悪く言うと神経質であり、ほうっておくといつまでも部屋や本棚の整理を続けてしまうタイプであって、物があったときも部屋はきちんと片付いていた。それでも今こうして物を減らしたことで、私はとても楽になった。自分が好きか嫌いかにかかわらず、あらゆる物事は「しないほうが楽」なのだという身も蓋もない真理を、この年になってようやく見出した。たくさんの物を整然としまってときおり眺めて楽しむというオタク的性質が私の中にも確かにあるはずなのだが、シンプルに「何もしなくていいならそのほうが楽」のほうが私の生活にはより強くマッチしていたのである。

「心がときめくものはとっておく、ときめかないものを捨てる」という法則もあてはまらない。「ときめいても捨てる」。これだ。これによって私の暮らしは研ぎ澄まされ体力が大幅に回復し体力ゲージの上限までもアップした。本が好きだが本棚は要らない。映画が好きだがDVDは要らない。音楽が好きだがCDは要らない。そうやって身の回りから何もかもがなくなっていくとまるで再開発によって完全に様変わりした中核都市の駅前みたいに自分のホームになんの愛着もなくなっていって、フラッシュバックした思い出の中以外に自分の居場所が感じられなくなるのだがこれについては向井秀徳も言っていた、福岡は、再開発してるんじゃなくてずっと開発しているのだ、だから福岡に戻っても思い出のようなものは意外なほど感じないのだけれど、それは悪いことではないのだと。行く先を失った望郷の念が向井秀徳の中で爆発するときにトンボザエレクトリックブラッドレッドとか杉並の少年みたいな冷凍都市の焦燥感みたいな歌詞が出てくるのだろうと私は理解した。うごめくエネルギーを持て余すような地方都市の孤独にさみしさを感じていたたまれなくなるくらいじゃないと私は生きる張りを失うだろう。改行もしないし整頓もしないことで行き場のなくなった気持ちをもてあそんでいるくらいで私の人生は一番私らしくなっていくだろう。

べきべき折るべき論

車の気温計をみると14℃とある。日が落ちてしばらくたつとはいえ6月下旬としては寒いほうだ。しかし本州の暑さが異常なのである。一年の1/3くらいが寝苦しいというのは温帯の定義にそぐわない。人間が生きるのに一番ほどよいのは北海道である。ほかの地域は増えすぎた人間が過ごすためにしかたなく住んでいる次善の地に過ぎない。北海道だけが住むべくして住んでいる「真の地」なのである。ほかの地域に住んでいる人たちは人間が住むにはきびしい場所をがんばって開拓していて偉いなと思う。


車を買い替えた。音がしずかなハイブリッドなのはいいが、動き出しにクオーンという音が鳴るのが不自然で未だに慣れない。低速走行のときは基本的に電気駆動だ。モーターが動いていないと走行音もほとんどないために、歩道の人間が車に気づかずにはみ出てきたりしてしまうので危険だから、わざわざ音を鳴らしているという噂を聞いたことがある。音姫みたいなものだと言えよう。本来、車というのはブオオンという音を出す乗り物で、私たちはその音によって危険を察知していた。技術革新によって音がなくなると車自体の危険度が上がり、人を守るために本当はなかったものを付け足したりするはめになっている。


少し前に購入した外付けキーボード、HHKBはCtrlキーなどの配置がWindowsのそれとはちょっと違う。Macだったら使いやすかったのかもしれないが私は未だになれない。打鍵の感触は最高……と言いたいところだが、正直そこまでの違いはわからない。キーボードを買う前にさんざんっぱらパンタグラフタイプがどうとか教えてくれた人たちがいたがいざ自分で試してみるとそこまでの違いは感じられない。超一流プログラマーほどではないにしろ私はそれなりにキータッチをする仕事についていて、毎日けっこうな量の入力をしているにもかかわらず未だにこのキーボードの良さを感じ取れない。ぶっちゃけそこまで違わないのではないかとすら思っている。たしかにノートPCのデフォルトのキーボードよりは100倍打ちやすいけれど、人体に合ったキーの配列がどうとかエルゴノミクスがどうとか、そういう理論は大げさだったのではないか。私は買い物で失敗することがあまりないのでちょっとうれしくてこうしてブログにまで書いてしまっている。経験の元は取れたというべきかもしれないが正直このキーボードをそこまで礼賛する理由は私にはよくわからない。愛着はある。



本当はどうあるべき論をひとりでこねくり回している。

どうあるべきもなにもあるようにしかないしなるようにしかならないのだが。

こうでなければいけないということはないのだが。



これまであまりやりとりをしてこなかった某学会の事務局が機関誌の編集も担当しているらしく、たまに編集部校正のメールが事務局から送られてくる。言葉遣いがいまいちフォーマルな日本語になっていないのが気になる。私がDeepLを使って海外のドクターにメールを送るときもこういう、「意味はとれるし間違ってもいないのだけれどどことなく受け手との距離感がおかしいメール」になっているのかもしれないということを気にする。ただ、くだんの事務担当者に向かって、メールの文面とは本来こうあるべきでしょうと指摘するのは違うだろう。本当はどうあるべき、みたいなことはひとつもない。ここにあるのは「こうなっているもの」であり、「結果としてこうなったもの」である。配られたカードで勝負するしかない、という有名なセリフがあるが、そもそもトランプは52枚プラスジョーカー1つもしくは2つ以外存在しないからよいのであって配られる前にカードゲームを選んだ時点で私たちは「細かいことはともかくそういう枠組み」の中でやっていくしかなく、配られたカードには基本的にランダム以外の要素は少なく、本質はかすみ、本来性はあいまいとなって、私はいつも「めぐりめぐって今日はこの不具合とお付き合いしていくしかないのだな」という気持ちになる。

ポジティブな間違い探し

これまで地方のとある病院にたまに診療応援に通っていた。ちかごろは別の地方の病院や大学に診療応援に行くことも増えてきた。そういう年齢である。あちこちにご奉公している。

違う病院を見て回るとしみじみ思う。同じ病理医といっても働き方は人それぞれだなということ。人手が足りないのはどこもいっしょだが足りなさの種類がそれぞれ違うということ。場にあわせて応援の仕方を変える。応援といってもフレーフレーするのではなく、私が各々の病院ごとに困りごとをよく理解して働いて助ける。



最近よく行っている施設には人がいっぱいいる。しかし若い人が多いし、難解な診断をたくさんしなければいけない施設でもあるので、ダブルチェック=ひとりの病理医がしっかり診断したあとに別の病理医があらためて診断をしてふたり以上で意見をすり合わせる体制を取り入れている。

ダブルチェックを採用すると人がいくらいても足りない。患者に正確な診断をくだすためになるし、病理医の安心のためにもなるが、とにかくマンパワーを食う。


病理医ひとりが誤診なく仕事をできる量は平均して年間3000~4000件程度だ。300床くらいの中規模病院だと病理診断は年間だいたい4000を越えるので、地域ごとにそこそこ名のある病院だと病理医ひとりに責任を負わせるのが大変になってくる。病理医としての実感でいうと、がんばれば年間6000件くらいは診断できるが、正直きついと思う。そもそも病理医の仕事は診断だけではない。年間6000件を越えるほど診断しなければいけない病院にいると研究も教育もたいてい猛烈に忙しい。

したがって中規模病院では病理医をふたり以上置くのが鉄則だ。しかし理想はそうだが現実はなかなかそうもいかない。

さらにいえば、病理医がふたりいれば診断件数を半分にできるかというとそうではない。ここでダブルチェック制度が効いてくる。6000件のうち3000件をまず自分が見て診断を書き、もうひとりの病理医にチェックをたのみ、チェックしてもらっている間にもうひとりの病理医が書いた診断3000件のチェックをする。ということは結局6000件すべてに目を通すことになる。ダブルチェックを採用すると必要な病理医数は2倍になるということだ。


ほかの科の医者はダブルチェックなんてしない、なぜ病理医だけがそんなに慎重を来さなければいけないのか、専門医資格を持っているのだからひとりで診断を出せばいいではないか、と言う人がいる。病理医の中にも「結局はひとりがしっかり診断することだから」とダブルチェック制度をとりいれずにひとりで診断をし続けている人間はいる。

しかし病理医の仕事はほかの臨床医たちとちょっと違うと思う。

多くの臨床医は「仮固定」を上手に使う。患者を診て暫定的な診断を下しつつ、さまざまな治療介入をして患者の状態を流動させ、診断を随時動かしていく。究極的には診断が何であっても治療がはまって患者が回復すればよい。

一方で、病理医が診断名を文章の形で残すというのは強力な「固定性」を示す。病理ががんと言ったら臨床がどう考えていてもその患者はがんだ。治療を加えて経過を見るごとにだんだんと患者の全貌が明らかになっていくような時間軸を使った診断を、病理医はあまり多くは施さない。

ある時点で病理医が建てた灯台はその後何年にもわたって患者と主治医を照らし続ける。診断というものの重みが強いとも言えるし、取り返しがつかないほど患者と主治医をしばる呪いの言葉だとも言える。



私が出張応援に行っている病院の診断数は年間10000前後だ。病理専門医は4人くらいいるからダブルチェックをかけてもひとりあたりの診断数は5000くらいである。しかし彼女ら・彼らは診断だけをしているわけではない。いまどきの病理医はカンファレンスが多いし、人がいれば教育だってしなければいけない。そういうところに私のような市中病院の昼行灯が応援に行き、ダブルチェックを担当する。


ダブルチェックをすると自分以外の病理医の診断をつぶさに見ることになる。これがじつにおもしろい。同じ細胞を見ても感じ取ることが違うのは当たり前だが、その、人それぞれに異なる感性から、結果的にどの病理医もが納得するような「最大公約数的所見」をきちんと抽出して、共有性の高い病理診断として言語化をしているのがおもしろい。この細胞のこんな異常を見ているのが偉いなあ、文章の書き方がだれにもわかりやすい構成、論調になっていて読みやすいなあ、句読点、改行の使い方がこなれているなあと、本当にさまざまに感動しながらダブルチェックをする。

ときには若い病理医たちが良かれと思って書いた文章にダメ出しをする必要もある。誤字脱字をひとつ見つけただけでがっくりと落ち込む病理医は多い。公的文書だから何度も見直しているのにそれでも誤字脱字のたぐいが減らないのはなぜなのだろうと、校了直後の編集者みたいな愚痴を言っている病理医にもよく出会う。そういうミスをダブルチェックで見つけつつ、「あまり気にしなくていいですよ、人間はエラーするものですから」という論調と、「こういうミスを自分で拾い上げるにはこういう技術を磨くといいでしょうね」という論調とをきちんとブレンドしてコメントする。


自分がいちから顕微鏡を見て診断をするのとはだいぶ違う能力が求められるうえに、自分が別の患者をいちから見るにあたって新たな視点・学術を取り入れることができる。ダブルチェックはとてもいい仕事だし、裏方感が強いので若い病理医に担当させるよりも私のようなトウのスタンダップした中年がやったほうがいいだろうなと思う。

わたしの老害ムーブ

たとえば乳癌の組織標本を見る際、病理医は、癌細胞が微細なリンパ管や静脈に入り込んでいるかどうかを確かめる。癌細胞が数個ずつ、直径たかだか数ミクロンくらいしかないリンパ管とか数十ミクロンくらいしかない静脈の中に入り込んでいるところを見つけて、病理診断報告書に「リンパ管侵襲陽性」とか「静脈侵襲陽性」と記載する。

このリンパ管侵襲とか静脈侵襲といった細かい所見、手間をかけてわざわざ見つけるからには、「患者の予後を鋭く予測できる」と思われがちなのだが、実はそこに巨大なエビデンスは存在しない。

リンパ管侵襲のあるなしが、治療方針にめちゃくちゃ影響するわけではないのだ。

数年後に患者の癌が再発するかどうかを予測できないのだったら、たかだか数ミクロンの所見をがんばって拾いにいく意味はないのではないか。

同じことは胃癌、大腸癌、膵癌、肝内胆管癌などについても言える。

一部の癌においては、リンパ管侵襲や静脈侵襲が「リンパ節転移の個数を予測するのに役立つ」とされている。しかし、根拠となった論文の検索方法が、日頃われわれが行っている検体の検索方法と必ずしも同じとは限らないため、統計の結果をただちにわれわれの臨床にあてはめてよいかどうかは疑問だ。

究極的なことをいうと、リンパ管や静脈の所見を細かくとるよりも、最近はやりのAIかなにかをつかって、病変をトータルで観察したほうが、よっぽど転移・再発のリスクを推測しやすい。

「患者の未来を予測するための因子」としてはリンパ管や静脈というのは決して効率のよいツールではなく、切れ味のよいマーカーでもない。




それでも病理医はこれらの所見をきちんととる。なぜか? そこんところをあまり考えずに「見ろと教わったから」と答えている若い病理医もいるのだけれど、究極的なことを言うと、「見ろと教わったから」でいいのかもしれない。というかこの姿勢のおかげで知らず知らずのうちに病理医は恩恵を受けている。

リンパ管侵襲や静脈侵襲を見逃さないレベルでプレパラートをみることは、病理医のしごとを「丁寧にする」という意味で役に立っている。

リンパ管とか静脈なんて見なくていいよ、どうせ患者には関係ないし、という人間の雑な顕微鏡の見方では、その他の所見もごっそり取りこぼすのだ。Micropapillary patternに気づかないとか、浸潤性乳管癌に浸潤性小葉癌を合併していることを見落とすとか。

リンパ管侵襲や静脈侵襲のような所見を毎日コツコツと探索している病理医にだけ見えてくる風景がある。

これらは病理医の診断のリズムと精密さをととのえるための役に立っている側面がある。



病理医に限らず医療従事者の仕事は年々増えており、むかしの医者よりも今の医者のほうがだいたいにおいて忙しい。おまけに今は働き方改革の名のもとに、もうちょっと深く仕事をしたいと思っても定時だから帰らなければいけない、みたいなことがあちこちで起こっている。

すると、病理医の場合、どうなるかというと、先達たちが「見ておいたほうがいいよ、患者にはあまり関係ないかもしれないけれど」と言っていた細かい所見を若い人がだんだん見逃すようになっていくのである。

その気持ちはよくわかる。今は免疫染色も見なければいけないし遺伝子検査の結果だって考えなければいけない。昔のように、H&E染色のプレパラートだけじっくり見ていれば仕事が終わるということはないのだ。

しかし、病理所見の多くを「今はそれ、エビデンスで見ろと言われていないから省略しますね」とばかりにスルーしていくと、顕微鏡を用いて細胞をじっくり見る力がだんだん削がれていく。結果として、エビデンスが推奨している項目だけならばAIに判断させたほうが優秀だ、みたいな話がボンボン出てきて自分たちの首を絞めることになるのだ。


先達にくらべて少しずつ我々の手技が雑になっていくのはしょうがない。令和には職人が育ちにくいと思う。かわりに平均的な実力を持った人たちが増えて、天才が生まれにくくなり、全国津々浦々で同じような医療が提供できるようになって、ワークライフバランスも保たれる。いいことづくめではないかと思う。しかし、それはそれとして、そうは言っても。

病理組織像をとことん深く見る訓練をしないまま病理医としてキャリアを積んでいくのはもったいないのではないか、と私は思う。もっとみんな顕微鏡ちゃんと見たほうがいいよ。おじさんはそう思うよ。

ドナドナ通過後の轍の探索

出張の翌日の朝、メールチェックの最中に爪を切ることが多い。理由がありそうだなと思う。土日に移動している間はあまりキータッチをしないので、金曜日から3日ぶりにキーボードに触ることで爪の感触がいつもよりぐっと変わるのだろう。それがきっかけになって爪を切る。でもそれだけではないようにも思う。疲労を引きずった朝、足先もまぶたも指の先端もひとしくむくんでいて、キータッチがいまいちうまくのらないので、せめて爪だけでも万全な状態に……という理屈をつけて仕事から早々に離脱するための爪切り、ということもある。爪が伸びているから爪を切るという順序だけではない。手をキーボードから遠ざけたいから爪を切るという順序も存在するのだ。


行動には複数の理屈がある。その理屈たちはたいていの場合行動に少し遅れてついてくる。サイドカーのように、行動のエンジンの推進力を拝借して横にぴったりと並走するのが理屈であり、サイドカーとは異なり、ひとつのバイクの前後左右上下あたりに登場席がたくさんくっついているのが理屈なのだ。そもそも理屈というのはそこにあるものではなくて私たちが解釈するものである。そしてたとえばなにかの出来事の理屈を解説するにあたって、日本語とフランス語とインドネシア語ではまったく同じ現象をまったく同じ学術で言い表したとしてもニュアンスは異なるのではないか。どれが正しいというわけではなく物事の理屈というものは受け手の状態によってある程度うごめいてしまうものではないか。それらは互いに違うことを言っているように聞こえるときもあるし同時に成立する可能性もあるのではないか。


本質とか理屈とか理由みたいなものを一義的に定めることへの抵抗がある。絵画や音楽みたいなものだ。読み方はひとつではない。だれもが納得する強い理論を有する現象ですらその語り方には幾通りかのバリエーションがありうる。彼岸に存在する「本当のすがた」をそれぞれ違うところに立つ人間が別の角度から見ているという意味ではなく(形態学などをやっているとたまにこの考え方に戻ったほうがコミュニケーションが簡単になるよなと短絡してしまうことはあるのだけれど)、ほんとうに、見た人の数だけ、見えたかたちの数だけ、言い表した言葉の数だけ確固たる理屈が存在するのかもしれないという気が今はしている。


同接280人くらいのYouTube、ライブが終わった後に視聴者数を見たら110人くらいまで減っていた。ふつうはライブ中に出たり入ったりするはずだから終わったところでだいたい1000再生くらいになっているものなのだが今回は減っていた。アクセスしている人間たちがF5更新を繰り返したりしたせいで不審なアクセスと判定されて視聴数がいったんリセットされたのだろう。しかしこの解釈が「正しい」のか「まちがえている」のかはわからないし確定もできない。このレベルの現象であれば「正しい」答えはひとつに決まるものだと思いがちだが実際確定できるものではないのだと私は思う。世の中のたいていのことは「正しさ」を追求しきれないうちにシュンと過ぎ去っていくものなのではないかと強く思っている。放送終了後のアルゴリズムによって同接者数のいくつかを真の視聴者数としてカウントしないという処置が入っていたとして、ではそのアルゴリズムが働くときと働かないときの差はなんなのか、どうしたらもっと再生数が高くなっていたのか、でもこの動画のキモは再生数ではなくて脳内への浸透率の高さのほうだろうとか、とはいえ伝えたかったメッセージは基本的には「正しく」は伝わらないだろうしみんなは牛の出荷のことにしか興味が残っていないだろうな、みたいなことをふわふわと考えていた。