ブッカツ帰りのハイスクールボーイ

「カステラがカステラをカスッテラ」というダジャレをつくるためにパワポに5分ほど向かっている間に、昨晩ウェブ研究会で症例を提示した医者からメールが届いた。高速で解説した私の話にきちんと呼応して細かな質問をしてくれている。ダジャレパワポを開いたまま、私が過去に経験して論文化した症例を探し出し、論文のPDFと詳細な病理解説のパワポをセットでGoogle driveに上げて、リンクを返信する(ほんとは論文はホイホイ送っちゃだめなんだろうけどまあopen accessだからよいだろう)。メール本文に解説を書き加えると8行くらい。改行せず8行。

みやすさを考えるときちんと改行したほうがいいし、

句読点も打ったほうがいいに決まっている。

しかし、近頃は、

たまにiPhoneですべてのメールを読んでいる医者などもちらほら出てきて、

そういう使い方をしている人からしてみれば、

こうして適度に改行するよりも

いっそ

改行なしで

ダーッと書いてやったほうが

読みやすいのではないか、

と思った




というような理由を用意したうえで、近頃の私はメールで改行をしない。そういう方針がおそらくこのブログにもにじみ出ていて、過去のアーカイブを眺めていると直近の記事はどれもあまり改行をしていない。ブログもスマホで読むだろうからメールと理屈は一緒といえば一緒なんだけど、スマホに比べるとブログ記事はやっぱりある程度改行したほうがいいのではないかと私自身も思うのだが、それでも結局改行を使っていない。つまりここまでの議論はわりと建前で、本当はもうちょっと別の理由で私は改行を使わなくなったのである。

昔はもう少し「侍魂」みたいな書き方もしていた。しかしやめた。単純にホームページ的ギミックに飽きたということもある。ガワで読んでもらうのではなく文章の意味やリズムで読んでもらいたいという欲も作用しているだろう。しかしもうちょっと理由の本丸を説明すると、私の脳からのオリジナルの出力に改行という概念がなく、文章として整形するときに効果を付け加えるのが面倒だからという理由で私は改行をあまり使わなくなっているだけな気がする。夜中にすっぴんスラックスでドラッグストアに洗顔フォームを買いに行くのとブログで改行なし推敲なしの文章を書きつけるのとメンタルステータスは似ているかもしれない。



話は変わるが今私の家にはあまり物がない。掃除や整頓をするのが楽だ。ただし私はそもそもずぼらではなくよく言えば几帳面、悪く言うと神経質であり、ほうっておくといつまでも部屋や本棚の整理を続けてしまうタイプであって、物があったときも部屋はきちんと片付いていた。それでも今こうして物を減らしたことで、私はとても楽になった。自分が好きか嫌いかにかかわらず、あらゆる物事は「しないほうが楽」なのだという身も蓋もない真理を、この年になってようやく見出した。たくさんの物を整然としまってときおり眺めて楽しむというオタク的性質が私の中にも確かにあるはずなのだが、シンプルに「何もしなくていいならそのほうが楽」のほうが私の生活にはより強くマッチしていたのである。

「心がときめくものはとっておく、ときめかないものを捨てる」という法則もあてはまらない。「ときめいても捨てる」。これだ。これによって私の暮らしは研ぎ澄まされ体力が大幅に回復し体力ゲージの上限までもアップした。本が好きだが本棚は要らない。映画が好きだがDVDは要らない。音楽が好きだがCDは要らない。そうやって身の回りから何もかもがなくなっていくとまるで再開発によって完全に様変わりした中核都市の駅前みたいに自分のホームになんの愛着もなくなっていって、フラッシュバックした思い出の中以外に自分の居場所が感じられなくなるのだがこれについては向井秀徳も言っていた、福岡は、再開発してるんじゃなくてずっと開発しているのだ、だから福岡に戻っても思い出のようなものは意外なほど感じないのだけれど、それは悪いことではないのだと。行く先を失った望郷の念が向井秀徳の中で爆発するときにトンボザエレクトリックブラッドレッドとか杉並の少年みたいな冷凍都市の焦燥感みたいな歌詞が出てくるのだろうと私は理解した。うごめくエネルギーを持て余すような地方都市の孤独にさみしさを感じていたたまれなくなるくらいじゃないと私は生きる張りを失うだろう。改行もしないし整頓もしないことで行き場のなくなった気持ちをもてあそんでいるくらいで私の人生は一番私らしくなっていくだろう。