要らないアリウープ

外付けキーボードのいいやつを買ってしばらく経つが、Windowsでいうところの「半角/全角」がないタイプなので、まだ手が慣れない。和文と英文が混在するようなタイプの文章を書くとすごく時間がかかってしまう。ストレスである。このストレスがぼくを立ち止まらせ、もやもやとさせ、文章の勢いが失われ、流れが離断され、我に返らせられ、トランス状態から覚めさせられる。結果として文章が読みやすくなったともっぱらの評判である。ええっ!! いい方にころぶの!?! びっくり。ぼくはこれまでノリで書きすぎていたのだ。前と比べると断然、今のほうが読みやすいのである。あぜん。ああぜんぜん。

ノリで書きすぎる、はぼくの個性なのだと思う。ノリ、の部分もそうだが「すぎる」の部分。過剰なのだろう。大は小を兼ねるが過剰は十全を兼ねない。中指だけが長かったら箸だってもちづらいし手袋だってうまくはめられない。無駄な動きが多いからよく家族にも失笑される。看板を見るたびにその文字を読むだけでなく指さししているらしい。そこまでしているだろうか。本当だろうか。ためしに先日、無意識でそういうことをしているかどうかを自分で監視してみた。むりであった。自分が無意識に何かをしているかどうかを意識的に監視するということはひどくむずかしい。観測した瞬間に観測されたものが変わってしまう。これはつまり不確定性原理である。違う。不確定性原理ではない。

文学とか哲学をやっている人たちがたまに、不確定性原理とか量子力学に言及することで自分は最新のサイエンス方面にも理解があるのだというふりをすることがある。量子力学って100年以上前に提唱されたんだぞ。別に最新じゃねえし「見立て」に使えるほどあいまいなものでもねえから。進化論、有意差、確率などにも言えること。そしてぼくらがたまにポパーがどうとかカントがどうとかベルクソンがどうとか言いながら科学の話をするのも、きっと向こうの人たちからは同じように見られているのだろう。リゾーム! 

今の「リゾーム!」が過剰なのだ。





毎日考えているのは病理診断のことである。実務的なことは実務の最中に考えるが、それ以外の時間は病理診断という営為について考えている。この作業は何のために為され何をもたらすのか。病理診断というものがシステムに組み込まれることで誰がどう助かっているのか。あるいは誰も喜ばないがないと困るという税金的なポジションなのか。病理診断でやっていることは、あいまいなものを名づけて分節するということだが、それを専任に担当する者がいることで誰の肩からどんな荷が降ろされているのか。あるいは逆に、いっそ、まったく他者と関係なく進む病理診断というものはあり得るのか。やはり病理医がいるというだけで観測できない領域で主治医や患者がうまく動いているという側面があるのだろうか、あってほしい、なかったらどうするのか。顕微鏡を見て何かを発見するということはあるのか。むしろ発明するということはないのか。こういうことがすべて過剰なのだとしたらそれはまあそうなのかもしれないけれど、さて、過剰に見えるものをレトリックで折り畳んでいくべきなのか、それとも畳まずに広げていくべきなのか、みたいなことを本当に毎日考えている。ブログを再開させた理由はこれらをときおり放ってみて、また自分の目で回収するという作業をやってみたかったからである。先日、NBAのニュースだったと思うが、シュートしたあとにリングの横のボードに跳ね返った球を自分でキャッチしてダンクする「一人アリウープ」をやっているプレイヤーがいて、それ許されるの? とびっくりしたがルール的には大丈夫なようだった。ああいうことをやってみたかった。書いて跳ね返らせて自分でキャッチしてリングに叩き込んでいくようなことができたらいいなと思う。冷静に考えれば、そんな芸当みたいなことをする技術があるならふつうに最初のシュートを入れればいい。ダンクしたって同じ2点だ。あれもまた過剰。過剰だと客は騙される。湧いてしまう。あとで振り返って、しみじみ思う。「結局何やってたのあれ笑」「シューター全盛時代に笑」