雪の降るのの効果音は「もさもさ」が一番だ。さらさらでもふわふわでも合わない。立体的な雪の埋め尽くしによって風景の遠近感がふしぎになる様子もそうだし、積もった雪の体積にくらべて質量がそこまでではないふしぎな感覚もそうだし、行き交う人びとの服装や顔のまわりのふしぎな空気感などもそう。もさもさとはふしぎの効果音である。なぜ水が結晶化するだけで中にこんなに空気を含む構造になるんだろう。なぜ寒さによって出来上がる構造が暖かさをわずかに含むのだろう。ここでの「なぜ」はhowではなくwhyでありたい。安易な神の意志論ではなく物理学的にwhyを解明してくれる人も世の中には数人くらいいてくれるはずだ。そこんところの角度が120度だからだよ、で話を終えるのではなく始めるタイプの人。そこんところの角度が120度の物体によって流体が構成されることに熱力学的な安定があるんだよ、で話を終えるのではなく始めるタイプの人。だいじなのは、話を終えるのではなく始めてくれる人のほう。だいじなのは、もさもさとしたふしぎにhowだけではなくwhyに沿った答えを考えてくれる人のほう。
余計なことを話す人が嫌われるのは、自分のタイミングで話し始め、自分のタイミングで話し終わるからである。「聞く方が満足するまでとことん話し続けてくれる人」ならばそこまで嫌われないはずだ。ただし、この条件はいかにも厳しい。聞くという行為は受け身いっぺんとうではない。聞いている人は口こそ閉じていても心の中でいろいろと応じているし、ときには自らの耳から入ってくる言葉をほしいものだけよりわけて選び取るような能動性を、表面的に沈黙していながらも内部でごそごそとやっている。「聞く方が満足するまでとことん話し続ける人」というのは、つまり、そういう聞き手のひそかな能動性に応じる、「受動的に話す」能力を持っている。いつもではないがときにそういう能力が必要なのだと思う。
何かをし続けるのには忍耐とか持久力が要ると考えがちなのだがたぶん人体の各パーツを稼働させ続けるにあたって部品のこすれに関する耐久性だけ持っていても持続はできない。受け取りながら発し続けるのに必要なのはセンサーの感度である。こちらが発することで相手は口を閉じ、喉の下の部分でだけかぼそいボリュームで何事かをこねくりまわしている、その微小な振動を感じ取るだけのセンサーの感度、それによって、受け取りながら話し続ける、引き受けながら動き続けることが可能になる。低温でつくられた結晶があたたかさを含むように、受け取り続けることではじめて構造化される発信形式があるのだと思う。