協和音

猛烈ないきおいで働いて、最後に浮いた30分を呆然として無為にすごした。心の中にいる小さいぼく(しかし居丈高で後出しジャンケン的な指摘が大好きなぼく)が、「ならしなさい……もうちょっと……ならしなさい……」という。

最後30分余ったということは、たしかにちょっと、がんばりすぎたということだ。しかしだ。

100%の力で4時間半(270分)働いて、0%の状態で30分過ごしたのを、均等にならすとどうなる? 270分ぶんの仕事を300分に拡張するわけだから、270/300で、90%の力で5時間働くってことだよ? 十分きついよ? しかもその後やすみなしだよ? 別に楽にはなってないよ? だったら30分ぼうーっと休んだほうがいいんじゃないか? ブログだって書けるし。

すると心の中のぼくがいう。「無為の真っ最中にメールが届いて新しい仕事が増えて、それをさっさと片付けようっていうんで結局残り時間も100%で働いてたじゃないか。捏造するなよ。休んでないだろ」

しかしぼくは反論する。「いやいやそれを言ったら、最後の30分を残しておいたから急な仕事に対応できたわけだよ。これ、90%の力で5時間働こうと思ってたら、メールのあとは120%くらいの出力を出さないと仕事終わんなかったぞ」

心の中のぼくはひるまない。「新しい仕事、飛び込んでくる仕事を、そうやって、できるできるとさばいていくから、いつまで経っても仕事が減らないんだ。『もうできません、今いっぱい働いているので』と言わない限り、負荷は右肩上がりなんだ」

ぼくは若干旗色の悪さを感じる。「うるさいな。やれるときにやれるだけやって何が悪いんだ」

心の中のぼくは手を緩めない。「いつかパタンと抜け殻になって5%くらいでしか働けなくなったらみんなに迷惑かけるんだぞ」

ぼくは反撃の糸口を掴む。「そんなこと言ったら世の退職者はみんなうしろめたい思いをしなきゃいけないじゃないか」

心の中のぼくはぼそりという。「ふつうの退職者はぎりぎりまで100%で働いてないんだよ」

ぼくは隙を逃さない。「ふつうがいいのかよ」

心の中のぼくが盛り返す。「ふつうでいいんだよ」

ぼくらはハモる。「そうかふつうでいいのか」




以上を人に見せて感想をもとめた。「ふつうの人は、自分の100%がどれくらいかとかあんまり気にしないし、やれる範囲でやるしやれないときはやれません」

ぼくらはハモる。「はい」