時限的鏡

「一度〇〇で食べちゃうとほかでは食えないよ」というフレーズを安易に使ってはならない。だらしないから、とか、恥ずかしいから、とか、大人げないから、ではない。ケンカがはじまるからだ。◯◯には都心の高級店、老舗の懐石、海外のミシュランレストラン、北海道の漁港など、津々浦々の多彩なパターンが当てはまる。決して自分だけがマウントをとって終わることはない。たとえばあなたが「一度ドコソコ本店で北京ダック食べちゃうとほかでは食えないよ」などと言おうものなら、すかさずマウント順番待ち整理券10番台~20番台の方々がむらがってきて、「わかります~私もナンチャラドカンチャラでブッフブルブルブルギニョン食べたら日本のフレンチがバカバカしくってシルブプレ~」とか「わかるどすわかるどす~うちも京以外の豆腐はすっかりご無沙汰でたまには食べ比べてみないとだめおすえなはれ~」とか「わかるべや~オラも知床で海鮮丼食べたときにはやっぱり内地とは鮮度が違うべやって思ったっけしたっけだべや~」のようなご当地マウント大集合になってしまう。無益だ。ところでマウントとマウンテンの違いはなんなのか? 昔、山脈のことを「マウントズ」と言った同級生がいたが元気にしているだろうか。

デスクにアポ無しでやってきた機器メーカーの営業がマウントをとらないと会話ができないタイプであった。聞けば別の用事で札幌くんだりまで来て、せっかくなので市中病院の病理の主任部長にも顔見せしておくか、くらいの気分で地域担当者に連れられてやってきただけだというからモチベが低いのだ。田舎の病院の部長だか医長だか知らないがこれまで会ってきた業界の大物と比べると適当な扱いでいいだろうというムードがすごい。名刺をわたす段階から「まあ一度お目にかかったことはあるかと思うのですが」とか言うのだが覚えていないので申し訳ない気分になる、しかし、その「申し訳ない」という気持ちを配備するところから会話をはじめること自体、マウントを取る気持ちが100%、マウント満点、マウンテンなのである。ぼくはこういう立場に置かれるのが嫌いではないというか、むしろ若干好きなところがあるので、終始ほくほくしながら、願ったり叶ったりの低姿勢で、うちの病院はだめなんですよ、おたくの機器を入れるほどのお金がないんですよ、うちの本部もだめなんですよ、IoT全般に弱くて、北海道厚生農業協同組合全体がだめなんですよ、できればこんな場末の検査室ではなくて、農協本部に直接営業をかけてくださいねえ! と伝えたところ、引きつった顔ではいともいいえとも言わずにけいれんしていた。医師として心配になった。無事に東京まで帰れればいいなと思う。

上下、遠近、都会と地方、高いスーツとユニクロ。相手との関係性の中で自分の輪郭を定めていく作業はひとえに、「人は誰もが自分の顔を直接自分で見ることができない」という眼球の構造的問題にあると思っている。たとえばカニを見ろ。カニの目は飛び出ているから、おそらく自分の姿を自分で観察することができる。だからカニはマウントなんてとらない。カタツムリを見ろ。カタツムリもきっと自分のアゴ(どこ?)とか自分の耳(どこ?)とかを飛び出た目から観察することが……あれ、カタツムリの飛び出たあれって目であってる? ツノ? ともあれ、人の目は飛び出ていないから、自分を見るためには鏡を見なければいけない。そして鏡がないところでは人を鏡として用いるのである。誰かに反射した自分の姿を見ながら外面と内面の身繕いをするのだ。映り方は互いの立ち位置によって変わる。自分が上の方にいて相手を見下していれば、相手はレフ板のようになって自分を照らし、まるで女優ライトをあてられたスタジオの芸能人のように美肌効果が出る。自分をよりよいかたちで見たければ、相手に自分を下から照らしてもらうことで、インスタ映えが近づく。そのためのマウンテンだ。

話はまるで変わるのだがこういうブログとかあるいは日記というのは自分を照らすものをあらかじめ置いておきあとで除きに行く、「時限的鏡」のようなものだなと思うことがある。設置したっきりそこにあることを忘れてはるか遠くで遊んでいたりすることが多いから、たいていのブログなんてものは書いたら書きっぱなしなのだけれど、たまに、ふとしたタイミングで、昔自分が書いたものに再開し、「うわっこのときの俺、こんな文章になんの気持ちをこめてるんだろう、なんの気持ちを隠しているつもりでこう書いているんだろう、なにが滲んでいることにも気づかずに何を書き散らしているんだろう」などと、夜中にひとりで代わり映えのしない鏡の中の自分を見るのとは一段も二段も異なる、独特の後悔と気恥ずかしさと、あとなぜかはわからないのだが、いじらしさのようなものを勝手に受け取ってしまうのである。