お世話になった方にメールを書いた。締めをこのようにした。
「先生ならびにご家族のみなさまがたが、お健やかにお過ごしくださいますよう、遠く来た後よりお祈り申し上げます。」
書き終えてCtrl+Enterで送信する寸前に、辺縁視が違和感に気づく。
……「遠く来た後より」とはなんだ? こんな文章を思い浮かべた記憶はない。
このとき何を打とうとしたんだったか。
とおくきたあと。
いや違う、そうか、
「とおくきたのちより」だ。
遠く北の地よりお祈り申し上げます。こっちだ。
ううむ、シレッと意味が通る誤変換をしやがって。
「遠く来た後より祈る」。
言われてみれば私は遠くにいる。生まれた場所とそう離れていない住所に今も住んでいるけれど、たしかに、どこかから遠くにやってきたような気はする。いっそ、誤変換のまま送信してもいいかもしれないと一瞬考えたがもちろん採用はしなかった。「後より祈る」には日本語として摩擦がある。メールで読んでも意味がうまく通じないだろう。
「後から祈る」ならわかる。それはきっと手遅れ感を巻き込んだ儀式である。後の祭り。
「遠く来た後より祈る」というのはどういうことだろう。うまく理解できないが、ニュアンスだけを与えてくるようなフレーズ。
噛むことはできないがにおいだけがする料理。
中が白紙の絵本。
死者の思い出。
「祈り以外の何ものをも届けられない場所より、ただ祈りだけを届けている」。「遠く北の地より」よりも、「遠く来た後より」のほうが適切なのではないかとすら感じられるようになった。用いこそしないが、あってはいたのだ。
いつしか私は迷路のなかにいる。表現、やりとり、交流、そういったものの中に、スパイス程度の断絶が含まれているものを好む。摩擦や粘度、アップダウンを越えてなお、顔中どろまみれにして這い回る人が手を伸ばしたもの、そこから強力な静電気でバチンと拒絶された瞬間にようやく察することができる、宿痾のような意味のかたまり/たましい。野鳥を観察するために野山にずかずかと入っていってあらゆる動物に逃げられるようなバードウォッチャーを見ていると共感性羞恥で死んでしまう。
遠く来た後より祈る。私はその恩ある先生との距離感はまさにそれくらいだろうと感じる。少しの断絶のことを思う。アラン・ロブ=グリエは果たして、友人たちとパーティー会場で談笑したことが一度でもあったのだろうかと、知ったらきっと失望するのだから思い巡らせないほうがいいようなことに思いを巡らせながら、メールの文面を校正してマウスで丁寧に送信をする。