クソリプという道具

誰かが「今日は寒いね」と言ったとき、「そう? 寒くないよ」みたいなリアクションをとらないようにしたい。


もし、誰かが寒いと言ったなら、それはその時その場所にいたその人が、「世界が寒く感じられた、と、他人に伝えたいと感じた」ことを示している。

このとき、気温/室温が数字上どれくらいであったかとか、じつはその人が心の中ではそれほど寒いと思っていないのだけれど寒いふりをしたかっただけかもしれないといった、「本当はどうなのか」は、どうでもよい。

「誰かが、寒いねと眼の前にいる人に伝えたくて、そのように声を発した」ことだけが、誰にも否定できない事実である。

逆に言えば、事実として認定可能なのはその一点、誰かが誰かに声を届けたかったというところ以外には存在しない。「あの人は寒いと言ったけれど、本当はどうだったのだろう」の、「本当は」は、言葉の力がやけに強いけれど、無為である。


私たちが誠実に暮らそうと思うとき、相手の口からなんらかの言葉が出たことを肯定しなければ、はじまらない。

実際の寒さと照らし合わせる必要なんてない。

その人の腕に鳥肌が立っているかどうかなんて確認しなくてよい。

世の中の何割の人が寒いと感じている日なのかなんてどうでもよい。

「寒いですね」と告げたかった人がいるということに、まずは向き合うべきである。




私たちはとかく道具に規定される。

私たちは進化の過程で服を手に入れたが、服なしでは過ごせない羞恥心にしばられている。

私たちは刃物や火を使える生き物だが、刃物や火なしではろくに食べることもできない生き物でもある。

道具によって行動範囲が拡がるだけではない。逆に道具によって行動範囲が狭められる。

私たちは、ほかの動物よりもはるかに、「ものの真贋を見抜く思考」を長時間運用することができる。そのせいでかえって、「真贋を判断しないまま思考をできない器質」に陥っているようにも思う。

「本当はどうなのか」

「裏には何があるのか」

「ファクト」

「イデア」

みたいな話に魅入られている。魅入られすぎている。

だから本能的に、誰かが「今日は寒いね」と言ったときに、「本当に寒いだろうか?」という事実確認の手順を、無意識でたどってしまう。

そのくせ、私たちが「事実」と考えているものの多くが、じつは自らの視座からしか体験できない主観的経験に根ざしていたりするのだから、幾重にもずれている。



他人と自分の「感覚質」が異なることに自覚的でないといけない、と言ったのは、『宙に参る』の鵯(ひよどり)ソラであった。

私の感じている世界と誰かが感じている世界とは違う。

それは悲しいことでも悩ましいことでもなく、ただ、違う。

その違いを、「えっ、私にはこう見えるよ」「私にはこうにしか感じられないよ」と、否定で埋めにかかる動きを、私たちは無意識にとりがちだ。

私たちがなまじ、「真実を見抜けそうな目と脳」を持ってしまったばっかりに、その道具によってかえって振り回されている。



事実も真実も、そもそも、他者と分け合えるようなたぐいのものではない。

「他者と分け合うことが可能な事実」がないわけではないが、それらは、「科学」が苦労しながら積み上げてくれている共有データの中に存在している。

科学だけで駆動していない人間性が感じる「事実」の多くは、そう簡単には共有できない。

他者の事実に対しては、肯定も否定もむなしい。ただ、おもんぱかることしかできない。



いにしえの哲学者の言った、「我思う故に我あり」は、じつに中途半端な言葉だ。信じられるものが自分の存在だけだったと言いながら、他者に伝わる言語でそのことを書き残しているのだから、かまってちゃんにも程がある。

「誰かが何かを言ったとき、それを言いたかった誰かがいる」ということ。「言う誰かあり」こそを、最初に掲げていれば、私たちはここまで、他者の感覚に自らの感覚を覆いかぶせるようなタイプの生き物にはならなかった。私はこう考えて、書いて、残した。