ベストが似合う年齢になった病理医の小言

病理医の仕事に「手術検体の検索」というのがある。人間の体に対して行われる手術の多くは、「何かをとってくる」=摘出作業にあたる。摘出された臓器は、大きくても小さくても病理医が確認する。すなわち、病理医の仕事は、最低でもその病院の手術の数くらいはある、ということになる。

ただしいくつかの例外があって、胆石や尿管結石のような「石」とか、血管の内側にへばりついている「プラーク」、胃腸に突き刺さっていた「魚のホネ」、白内障における「なんか白くにごったアレ」などは病理医の担当ではない。心臓の手術や整形外科の手術などのように、摘出ではなく「補修」的な手術の場合も、「取ってくるもの」があまりないので、病理医の出番は少ない。

病理医が多く関わるのは「がん」の手術だ。臓器そのものが取り出されてくるならば、必ず病理医が関与する。

肝臓や腎臓や肺などにできものができたら、それらを十分な「とりしろ」を確保した状態で切り取る。胃腸のがんなどではパイプ状の臓器を切って、病気のある部分だけを取り除き、残りをまた繋ぐ。これらの「取ってこられたもの」がすべて、病理医に預けられる。



すでに病気は取り終わっているのに、なぜ取ったものを病理医がさらに見なければいけないのか?

いくつかの理由がある。

ひとつめの理由。「取ってきたものをくまなく観察することが、その後の患者の治療につながるから」。

すでに取り終わった臓器はどれだけいじくり回しても患者に負担がかからない(痛がらない)から、どれだけ見ても大丈夫だ。ためつすがめつ見る。ナイフで切って見る。顕微鏡でじっくり観察する。

その結果、病気の正体がなんなのか、どれくらい広がっているのかを把握して、手術後の患者の治療に結びつける。何ヶ月後にCTで追加検索をするか、抗がん剤を追加する必要があるか、あるとしたらどのような薬をどれくらい投与すればいいのか、といった判断のほぼすべてが、病理医の診断をもとにくだされる。

主治医が患者に、「手術後の検体は病理医に見てもらいます」などと説明するとき、どうしてそんなことをするのかと問われてまず答えるのが、「今後の治療方針を決めるため」の一言である。


でもこれだけじゃない。ほかにも理由がある。

それは、「病理医がきちんと臓器を扱って病理診断をすることで、あとから振り返って研究することができるから」というものだ。

あらゆる病気の「治療法」は、人類がこれまでに経験してきたことを積み上げ、専門的な検討を加えることで編み出される。理論だけでも動物実験だけでも治療はできない。この薬を使っても効く人と効かない人がいるのはなぜか。手術でケロッと治る病気と再発する病気があるのはなぜか。どのタイミングでどういう治療を行ったら患者の命がより延びるのか。こういったことは常に、ひとつひとつの症例から得られたデータをもとに解析され続けている。

医学ではどんな領域においても、1年前の治療よりも今の治療のほうが少しだけ精度がよくなる。これはひとえに、患者ひとりひとりの、病気ひとつひとつのデータを解析する人がいるからだ。このデータ解析の中核にいるのが病理医である。


病気のデータ解析をする際には、3つの条件が求められる。

(1)日本中、世界中で通用するような、客観的な観察方法を用いること

(2)くまなく検索して、網羅していること

(3)あとから見直せるように、素材もデータもきちんと保存しておくこと

それぞれ説明しよう。まず(1)だ。客観的な観察方法。病理診断のやり方は「取扱い規約」などによって体系化されていて、全国どの病院でも、同じ手術を施行したならばだいたい同じやり方で検索がなされる。これがすごく大事。

また、前述したように、病理診断は患者に対してそれ以上の負担をかけず、取ってきた臓器をじっくり検索できるので、毎回同じ手順で詳しく検索しきることができる。患者本人の記憶をたどる必要がある問診とか、患者の状況によっては施行できないことがある画像検査・血液検査といった検索方法にくらべて、客観性も網羅性も高い。したがって(1)と(2)が満たせる。

そして、(3)、つまり保存性だ。ホルマリン固定したのちに、パラフィンと呼ばれる物質に封入された検体は、半永久的に保管できる。30年前の手術検体からプレパラートを作り直して、かつては存在しなかった診断概念を持ち込んであらたに診断しなおすと言ったことも可能だ。DNAやタンパク質については何年経っても再度検索できることも多い。

加えて、病理診断は「細胞のようすを逐一記載する診断」だという点も地味に見逃せない。病気の概念は時代とともにうつりかわる。たとえば、かつてhepatoid adenocarcinomaと呼ばれていたものが今はadenocarcinoma with enteroblastic differentiationと名前が変わった、みたいな話がしょっちゅうある。でも、「細胞がどのように見えるか」については、時代をいくら経ていても、当然だが変わらない。「細胞質が淡明で、核異型が強く、細胞構造が索状になっている」といった情報を読めば、30年前には診断できなかった(診断概念がなかった)病気についても、ああ、今でいうところのあの病気だな、と推測することも可能である。つまり、病理診断は、情報の意味でも保存性が高いのである。

あと、上の3つの条件とはちょっと違うけれど、病理医という職業が「わりと数を見る仕事である」というのも大事かもしれない。たとえば私は、数年前までは年間約4000件の病理診断に携わっていたし、最近はもう少し仕事が増えて年間6000件程度の診断を行っている。これほど多くの患者に携わるのは、あくまで患者の「一部」(※検体)しか見ていないからではあるが、その分、ほかのどの医者よりも多くの病気を見ていることになる。必ずしも多く経験すればいいというものではないにしろ、日常的に多くの症例に出会っていることが、データ解析の精度にはそれなりに重要ではないかと思う。



病理医を目指す若手や、専門医を取り立ての病理医などが出席する会に出ていると、病理医の仕事の「作法」についての、ローカルな違いなどが話題にのぼることがある。臓器を検索するにあたって、どこまで細かく追求すべきか、といった話では、ときに、「ここまでやっておけば診断には十分だし、主治医もそれでいいよと言ってくれているので、あとはうまく手を抜きます笑」といった話が、(どこまで本気なのかはともかく)語られることがある。

これは決して悪いことではない。病理診断に限らず、あらゆる仕事は「うまくサボる」ことが長く続ける秘訣であることは言うまでもない。

しかし、病理医の仕事相手が、「今そこにいる患者」と「その主治医」だけだと思っている病理医がいることはちょっとだけ気になっている。我々の仕事は、将来の医学のためにデータを確固たるかたちで残すこととも関係がある。主治医がそこまで求めていないから検索を省略するという姿勢は、病理医の仕事をそれこそ「3割」くらいサボっていることになるのだけれど、給料がもらえるからといって、働いた充実感が得られるからといって、それでほんとうに、「病理医としての人生」を満了したことになるのだろうかと、私はたまに気にしてしまう。


あー、俺、いい感じでうっとうしいおっさんに育ってきたな……。