むしのむなし

映画「PERFECT DAYS」に出てきた柄本時生の役がよかった。渋谷のデザイントイレを日々清掃する平山(役所広司)の仕事仲間。

平山(役所広司)はシフトを気にして本部に電話で文句を言ったりするので、バイトリーダーもしくは社員待遇なのだろう。一方の柄本時生はどう考えてもバイトである。バイトなのだから当然のことだが、金さえ稼げれば仕事のクオリティや責任や影響などは正直どうでもいいし、バイト代を貯めてガールズバーの女の子にみつぐこと以外にモチベーションはない。そして、柄本時生は平山(役所広司)に金を無心するのだが、その頼み込み方が、「いかにも」である。

詳しくは映画を見てもらうとして、ああいう、自分の損得や感情のために周りに「ひとまずあつかましめにアピール」はするけれど、一線を越えた暴力とか暴言とかは言わないタイプ、いうなれば「あつかましい草食系」という形象を、柄本時生は完全に演じきっていた。これは役柄なのではなくて本人の器質なのではないかというレベルまで仕上がっていた。各種の映画賞が彼に助演男優賞を与えていない(どころかノミネートすらしていない)ことが不思議でもあるし、それだけ夾雑物なく映画に沈み込んでいたということでもあって、逆にリアルだなとも思う。

なお、主役の平山(役所広司)についても、役所広司がすごすぎて、作中、まったくノイズを感じずに平山という一人のキャラクターとして見ていくことができるのだが、映画が終わって数日経つと、役所広司のこれまでの膨大な実績に飲み込まれて「平山(役所広司)」というようにカッコがついてしまう。その点、柄本時生は違った。あれは逆に役名が思い出せない。演じているのではなくて本人だというくらいに柄本時生そのものだった。柄本時生でしかなかった。いや、まあ、柄本時生が本当はどういう人なのかなんて私は知らないけれど、平山(役所広司)とは違う意味で、あれは「柄本時生」という不可分の一個体であり、私はそこにほれぼれとした。





さて今日の私は、柄本時生のすごさを語りたかったわけではなく、柄本時生が演じた若者について言葉を探したい。彼の見事な演技を見ながら私は、「無私」という姿勢がむなしい時代に暮らしているのだという思いを新たにした。多様性を認めつつハラスメントは撲滅する、極めて正しい方向に世の中が一斉にドライブしていくなかで、内輪差に巻き込まれるようにして砕け散ったのが「無私」の精神ではないかという気がする。

最近、みんな、「私」を隠さなくなった。悪びれなくなった。交渉が単純になった。ほしければくれという。嫌な仕事はやめたいという。すべて許容される時代であることに、不満は一切ない。しかし、「私」の提示がとにかく強くなった、という印象は否めない。

逆に、自分の欲望や生き方をいったん棚上げにして、顔の見えない誰かのために何かをするような精神は、本当に少なくなったと感じる。他人の中にも、そして、自分の中にもだ。

多様なありかたをすべて認めるために必要なのはあらゆる個人にオリジナルとしての権利と自由を許可することである。そのためには、確定申告で何度も何度もマイナンバーカードのスキャンを繰り返すように、いつも何度でも「私」を提示していく必要がある。我々はいまや、「私」を外表面に露呈させた人たちが押し合いへし合いするバブルサッカーのコートにいる。

「とりあえず目の前にいる相手が一瞬でも不快になったら謝ろう、でも、もしかしたら不快にならないかもしれないのだから、まずは自分の欲望を素直に相手にぶつけてみよう」。平山(役所広司)の持っている1970年代の洋楽ロックのカセットテープを勝手に叩き売ろうとする柄本時生の姿は、「無私」とは程遠い。スマホのQRコードを店員に読ませるように、「私」を相手の眼前に出して交渉をし、「私」を保持し続けることに人生を費やす姿。それは榎本時生だけではなく、アオイヤマダ、石川さゆり、三浦友和、あの映画に出ていたすべての人に巧妙に縫い付けられていた、ヴィム・ヴェンダースの慎重な呪いではなかったか。

歴史的文脈を遡れば、一億総玉砕、欲しがりません勝つまでは、公益の為に「私」を消しなさいと強要されてきた時代のひどさに思い至る。「それに比べれば」「自由と平等のためならば」。しかし、人間はこうも逆張りしかできないものなのかとため息のひとつも付きたくなる。こうまで、ここまで、私に押しつぶされあう世の中で、私は今後、ある一瞬だけであっても、「無私」の仕事を、なにかひとつでもやっていけるものだろうか。