むき身の自然よりも

妻が友人からもらった花束の中に桜の枝が入っていた。つぼみがふくらんでいた。花瓶に生けておいたら翌日には花が咲いた。3月の下旬に入ったばかりのことである。

今年の開花予想は札幌だと4月24日ころだから、1か月以上早く春がやってきた。東京の桜が満開になるのもまだ2週間くらいはかかるだろう。花束の桜は自然の桜よりも圧倒的に早く咲かせることができるのだなと思った。そんなものなのかもしれないけれど、そんなものなのだなあと胸に迫るなにかがあった。

この桜の枝が木から落とされたのは秋口あたりだろうか。そうでないと自然の桜と同じように外気にさらされたはずで、こんなに早くつぼみがつき花が咲くわけはない。おそらく、3月末という卒業・異動シーズンにあわせて、専門家がきちんと温度管理をしてくれたのだろう。この花をくださった人にはもちろんだが、育ててくださった人にも感謝をしたい。


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昨今は、上記のような話をすると、「自然のものを操作したいびつさ」に対して違和感を表明する人があらわれる。

「自然の花を折って開花時期をコントロールするなんて、不自然です。わたしは好みません。まして、そういった行為を発信して拡散してしまうことにも不快感を覚えます」くらいのことを言う人がいる。

仮に今の話をこのブログではなくSNSに書いたら、炎上のリスクが数%くらいはあるだろうということを、私は経験的に感じるし、多くの人もおそらく感じ取っている。

「生活にかんする感想」の多くがSNSでは共有しづらくなった。失言に対する抑止になっていいととらえるべきだろうか。でも少しさみしい気もする。


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他人のすることに突発的に怒りをぶつける人びと。コンビニで店員に、改札で駅員に、病院で事務員に、居酒屋でテレビに、そういった風景に、数年に一度くらいのペースで遭遇していたのが、SNSでは毎日のように、見たくもないのにトレンドやら他人の会話やらで目にする。無造作に視界に入りこんでくる。

最近のそういった怒りの多くは「洗練」されている。理不尽な怒りばかりではなく、理屈がいちおう通っているのだ。前の段落では「突発的に怒りをぶつける」と書いたけれど、突発的なゆえの支離滅裂さというのがSNSだと少しマスクされる。いや、因果が逆か、筋道がある程度整った怒りばかりが多く拡散されて目に留まっているのかもしれない。

筋道が通っているとはいえ、だから共感できるかというと、そんなこともない。端的にいうと「ほどよさ」が備わっていない。本来手を触れるべきではない素材が腕や顔に押し付けられたときのような、ざらついた感触が、共存を拒否する。

「怒りたい」という目的がまずあって、それに「うまいこと」物語を後付けしているように感じる。だから、怒りに至るまでの流れに正当性があっても、なんか上手にネタを見つけてきやがったんだな、という感想ばかりが先に思い浮かんでしまう。

自然の桜よりも花束の桜が早く咲くことに怒る人は、おそらく、花束の桜がなかったとしても、養殖魚や畜産物などについて不自然さを指摘して今この瞬間やっぱり怒っていたのではないか。

怒るためにネタを探す人たち。



医療情報を発信し続ける医師の中にも、怒り続けている人がまぎれている。毎日さまざまなニセ医療、エセ科学のネタを探してきて噛みつき、ケンカをしている。その怒りは常に科学的なエビデンスや医療的なナラティブにもとづいており、筋道はいちいち通っている。理論的には「正しい怒り」に分類されるだろう。

おそらく本人は、自分は怒り続けているのではなくて、「世直しをし続けている」という認識なのではないかと思う。水戸黄門や暴れん坊将軍や遠山の金さんが毎週悪人たちを成敗していくのを見て「また次の怒りの矛先を探している」と感じる視聴者はいない。世に悪の種はつきまじ。それは正しい世直しだった。ただしあくまでフィクションであった。

毎日怒る医師たちも、きっとああいう「髷物の主人公」を知らず知らずのうちに演じている。でもこちらはフィクションではない。今も現実に、たくさん起こっていることだ。




継続的に怒りながら何かを発信していく姿は、たとえ筋道が通っており大義を背負っていたとしても、SNSでは「怒るために怒っている人」と相似形になる。洗練された世直しが、クソリプと区別がつかない状況だ。

「理屈がうまくつながっているから大丈夫」と言い訳せずにふと立ち止まる。エビデンスで殴りかかるのはクソリプの怒りと同じ見た目になるんだからよくよく注意すべきなのだ。

理論を飲み込んで栄養にして、それが生み出した熱で多彩な行動をとる。筋道を代謝して同化する。自然の一部でありながらエントロピーを局所的に減少させることができる生命のありよう。正面突破以外のやりかたが結果的にゆるやかなホメオスタシスを達成しうる。むき出しはよくない。私たちには手があり脳があるのだ。