今どきのドラクエやFFくらいのビッグタイトルだと、「使い道のわからないアイテム」みたいなものは一切ない。まんげつそうはしびれをとる。きんのかみかざりはMP消費を減らす。RPGのお約束、ナンバリングタイトルの安心感。
でもそれは私がドラクエやFFを長年やり続けてきたからである。単に「知っているから知っている」というだけのことだ。ファミコンやスーファミ時代の「アイテム」は、そこまでユーザーフレンドリーではなかった。「知らない」「わからない」をやさしくフォローするような仕様はいっさい含まれていないのがデフォルトであった。
貝獣物語や桃太郎伝説には使い道のわからないアイテムがたくさん出てきた。甲竜伝説ヴィルガストに出てくる「キセキガン」と「カツリョクガン」、名前だけで効果を予想することはむずかしかった。どっちもたぶん回復系だろうなということはわかったが、では具体的に何をどれくらい回復させるか予想することはほぼむりだ。「アイテムをセレクトした時点で使い方が表示される」なんていうのは平成も後半に入ってからのシステムであって、当時そんなものはまったく一般的ではなかった(ドラクエIIIのソフト同梱説明書に、その時点ではなんのことだかまったく予想もつかない「あいのおもいで」の使い方が記載されていたというエピソードを思い出してほしい)。
Googleのない時代。口コミと攻略本以外に情報源はない。「ダメ元で使ってみる」以外に、取得アイテムの効果を確定させることはむずかしかった。「せかいじゅのは? なにこれ? なにもおこらなかった……あっ! なくなった? ん? また拾えるの? どういうこと? 別にいらんか……」みたいな悲しい事件は全国で同時多発的に勃発していた。逆に、「いなずまのけん」をもし戦闘中で使ってなくなってしまったらと怖くて、何度でも使えるアイテムを使うことが怖くなったりもした。
ところで話はものすごく変わるのだが、先日、ある書店員が書いた本を読んだ。読み終わることはできなかった。半分くらいでちょっと飽きてしまってそれ以上読み進められなかった。まあ悪い本ではなかったと思うのだけれど私には合わなかった。その、内容自体は今回は置くとして、文体が少し気になった。やけに哲学書的な単語が出てくるのである。それも、小難しい内容を小難しく書くことを一貫してやっているならばあまり気にもならないのだけれど、わりと日常的なできごとを、一般の人ならばもう少し平易な語彙で言い表しそうなものごとを、その都度「むずかしい方の単語に置き換えて」書かれた文章だなということが伝わってくる。生理的な違和感が蓄積して、結局それ以上先に進めなくなった。
この違和感は、同族嫌悪感ともかなり似ている。私もまた、ネットや本で見つけた単語をとりあえずすぐにその日のブログで書いてしまうタイプの厚顔な人間だ。「差延」「止揚」「閑話休題」あたりはほんらい私の頭の中に居場所をもたないフレーズであり、どこぞの学者が上手に使っていたのを見てなんかいいなと思ってからたまにブログで使ってしまう。それこそ、アイテムの効果は使ってみなければわからない、みたいな気分で小難しい単語を使っている。心の壁を裏装する幼弱な自尊心がある。書店員の書いた本を読みながら私は心をメスで切り開いて裏側を表側にひっくりかえして見せられたようなおぞましさを感じ取っていた。そもそも「心の壁を裏装する幼弱な自尊心」というフレーズ自体がまさにそういう作られ方をしている。
外国語をどんどん覚えていくタイプの人などは、自尊心がどうとかいう切り取り方をせずに、覚えたらとりあえず使って自分の体になじませるムーブを自然にこなしているようにも思う。しかし、それはまあそうなんだけれど、ブログ的な場所で知ったばかりの単語をうれしそうに使う自分の姿はいつ思い返してもちょっとはずかしい。はずかしいものも含めて自分なのだけれどそれでもなおはずかしい。そんな気恥ずかしさを、私はくだんの書店員の本から感じ取ってしまったのだと思う。「くだんの」なんてここで使わなくてもよくない? いやあ、拾ったから一度使っておかないと効果がわかんなくてさ……。
そして話はすごく元に戻るのだが、「桃太郎電鉄」というタイトルがパロディだということを今どれだけの人が覚えているのだろうか。あれ、もともとは「桃太郎伝説」が先にあったんですよ。まんきんたん。